庚申塔物語

庚申塔の範囲の基準

庚申塔の範囲の基準

範囲の基準の必要性

我々は普通「庚申塔」と口にしているけれども、一体、庚申塔とは何か(定義)、どのようなのも のが庚申塔であるか(範囲)ということになると、なかなか簡単には説明することができないであろ う。私自身としても、今までに庚申塔とそうでないものとを区別して調査を進めてきたし、また、そ の結果を雑誌等にも発表してきたのだから、何らかの基準を設けて、それによって庚申塔か、そうで ないかを判断してきたことになるだろう。それでは一体その基準は、どのような基準であるのかと言 われると、答えに詰まってしまう。それと言うのも、私自身が庚申塔の範囲を定めた明確な基準なり 尺度なりを持ちあわせていなかったからに外ならない。

それでは、今までどうしていたかというと、明確とはいえないけれども、例えば、三猿とか、青面 金剛とかいう、一般的に庚申塔として認められているような共通の尺度、或いは通念といおうか、極 く大まかな共通の尺度によって判断してきたといえるだろう。通念に従って私が庚申塔と判断してき たことは、一面からみると他動的な基準によって判断してきたことを意味する。こうした他動的な通 念による考え方を受け入れていたのだから、調査した塔の数が増し、見聞も以前より広くなってくる と、現在まで基準にしていた通念がはたしてよいものであるかどうか、と疑問を持つようになってき た。また、現在の通念に矛盾した点も感じられるようになった。

先に窪徳忠教授は、『庚申』第41号の誌上の「庚申信仰研究の回顧と展望」において、庚申塔の 概念規定の統一の必要性を説いておられる。そして、一例として、「道祖神」と文字を刻んだ下に三 猿のついている塔や、「ウーン」1字を刻んだ塔をとり上げて、問題を提起されている。狭い地域を 趣味的に興味本位に調査するのならばともかく、庚申塔の調査が全国的に拡がっている現在、庚申塔 の範囲が定まっていなくては、各研究者にとっても誤解や混乱を生じ、各地間の比較もできない結果 となる。Aという塔をB氏は庚申塔として認めるが、C氏は庚申塔でないとしたら、またDの塔の場 合はその逆であったというのでは困る。それ故、庚申塔の範囲を定めることは、各地間の比較を容易 にし、無用な誤解や混乱を起こさずに、研究をスムーズに能率的に進める上で非常に重要なことであ る。この際、庚申塔に範囲を定める基準の必要性を認めて、各々研究者の間で議論を戦わせ、庚申懇 話会としての庚申塔の範囲基準を定めていただきたいものである。

実際問題として、庚申塔の範囲基準を設けることは、庚申信仰自体が複雑な要素からなりたってい るから、困難な点が多々ある。しかし、そのままにしておいては研究の交流に混乱が生じないとも限 らないから、非力をかえりみず、トップバッターとして、私なりの庚申塔の基準を述べて、議論の口 火を切りたい。極く狭い地域の庚申塔調査と、貧しい知識とによって組み立てた基準であるので、推 論の誤りや、独断が多いかもしれない。また、一地方では通用するが、全国的にみた場合には不適当 であるかもしれない。そのような点は徹底的にご指摘いただきたい。そして1日も早く庚申塔の範囲 の基準が設定されて、各研究者間の無用な混乱や誤解なしに、同一の尺度をもって、より高度な研究 に進まれることを期待するものである。

基準の設定

庚申信仰に基づいて作られたすべての石造物がすべて庚申塔であるならば、庚申塔の定義も範囲も 比較的に容易だし、種々の問題も起こらないかもしれない。けれども、我々が「庚申塔」といえば、 庚申信仰に基づいて作られた石造物を指すのではなく、その中のある範囲の石造物を指している。そ れでは、ある範囲とは一体どこまでを指すかというと、共通の範囲を多く持っているものの、明確な 範囲ではなく、各々の研究者によって多少の違いがみられる。そのような違いが、例えば、東京都北 区赤羽町1丁目の宝幢院にある寛永16年塔を庚申塔とみる説と、これは単なる山王廾一社の供養塔 であって、庚申塔とは認めないとする説とがある。

「この範囲にある庚申信仰によって建てられた石造物は、すべて庚申塔である」という明確な基準 は、私の知る限りでは、まだ出ていないようである。しかし、これに近い基準は、清水長輝氏がその 著書『庚申塔の研究』の8頁で「本書では次の範囲内のものをだいたい庚申塔としておいた」と、極 く控え目に述べている。その基準は、2、3の例外を認めながらも

  1. (1)庚申信仰によって建てたことを銘文にしるしてあるもの。
  2. (2)青面金剛の像か文字をきざんだもの。
  3. (3)塞目塞耳塞口の三猿か、その1部があって他の造塔目的をしるしていないもの。
  4. (4)三猿形態以外の猿でも、塔全体が他の庚申塔と類似的なものや、日月、鶏などをともなって、おおむね庚申信仰のために建てられたことが想像されるもの。

の4つをあげ、

  1. (イ)施主は庚申講でも他の目的で造塔したもの。
  2. (ロ)庚申塔や庚申祠への奉納物。
  3. (ハ)自然石など伝承的なもの。

の3つの場合を除外している。

清水氏の基準をここで仮に(1)が銘文基準、(2)が青面金剛基準、(3)が三猿基準、(4) が類似基準、(イ)が造塔目的基準、(ロ)が奉納物基準、(ハ)が伝承基準と呼ぶことにする。こ れらの基準を基本にして、私なりの基準を設定した。

私の基準は、基準を大きく(I)資格基準と(II)除外基準の2つに分けて、資格基準に適合した 庚申信仰によって建てられた石造物(以下、庚申信仰石造物という)の中で、除外基準に反しないも のを庚申塔とするものである。

資格基準は、清水氏の(1)から(4)までの基準に、

  1. (5)猿田彦の像か文字を刻んだもの。
  2. (6)帝釈天の像か文字を刻んだもの。

の猿田彦基準ち帝釈天基準の2つの基準を加えたものである。そして、除外基準は清水氏の(イ)か ら(ハ)までの3つの基準を用いることにする。これを分かりやすいように示すと、次頁 のようになる。これを実際の庚申信仰石造物にあてはめて、資格基準のA項からF項までの6項の基 準をチェックし、その1項、またはそれ以上の基準に適合したもので、さらに除外基準のG項からI 項までの3項に触れないものを庚申塔とする。

具体的に幾つかの例をあげて説明を進めるほうがわかりやすいので、『庚申塔の研究』の中から数 基を選び、どの項に該当するかを示しておこう。

庚申塔判定基準

まず、現存最古の庚申塔としてしられる旧・練馬区春日町・稲荷社の長享2年のマン種子板碑は、 「奉申待供養結衆」の銘文が資格基準のA項に該当し、その上、除外基準の3項に反しないから 庚申塔と認める具合である。B項該当の塔は、特別に例をあげなくても問題はないと思うので省略する。 埼玉県川口市金山町・善光寺の嘉永6年塔(第50図)は、「庚申」の銘文(A項)と猿田彦の像(C項)が 合致し、神奈川県鎌倉市材木座・五所神社の寛文12年塔(第27図)は、「奉造立帝釈天王」の銘文(D項) と三猿(E項)が、東京都豊島区高田本町(当時)・目白不動の寛文6年倶利迦羅不動刻像塔(第24図) は、三猿(E項)が、東京都台東区浅草公園(当時)・銭塚地蔵の承応3年大日如来刻像塔は、 「爰以酬庚申供養」の銘文(A項)と日月・一鶏・一猿を刻むこと(F項)が、いずれも資格基準に適合し、 その上G・H・Iの除外基準3項に触れていないので庚申塔とみる。

この基準を用いる際に注意しなければならない点は、清水氏も指摘されているように、台石の交 換である。特に三猿を刻んだ台石のみでE項適用となる場合には、本塔と台石との組合せを充分に吟 味する必要がある。何故ならば、塔の移動などにともなって、本塔と台石との組合せが替わったりし て、誤りを犯しやすいからである。

基準適用の問題点

前の具体例でみたように、基準の適用がスムーズに行われるのであれば非常によいのであるけれど も、実際に種々適用する場合には、判断に苦しむような場合も生じてくるのである。庚申信仰自体が 道教や仏教、あるいは神道や他の民間信仰と複雑な形でいじまじり、他の信仰と共通した面がみられ るから、その信仰を反映した庚申塔においても、他の信仰と重なり合った部分に明確な基準を引くこ とはむずかしい。そのために基準ができても、どう判断し、どう適用するかという点で問題が生ずる のである。その問題点が前にあげた山王塔であり、窪教授の指摘されたウーン種子塔や道祖神塔であ る。

問題点の第一として、まず山王塔からとりあげてみよう。山王廾一社の本地仏種子を刻んだ庚申板 碑を始めとして、山王権現の文字やそれらしい像を刻んだ庚申塔があり、現在でも庚申の主尊を山王 さまと信じている地方もみられるから、庚申信仰と山王信仰との関係は密接であり、共通の部分を持 っているといえる。しかし、こうした反面では、山王信仰が庚申信仰と無関係な部分もあって、現在 にいたっている点も無視できないだろう。庚申信仰イコール山王信仰ならば、新たに山王基準を資格 基準の1項目とすることに異論はないけれども、それでは山王さまの石祠までもが庚申塔に含まれて しまって合点がゆかない。もっとも、除外基準のG項、つまり造塔目的基準によってチェック・アウ トすることも考えられる。しかし、山王廾一社の本地仏種子を刻んだ塔が、すべて庚申信仰に基づい て造塔されたものであるかどうか、また江戸初期に造塔された山王廾一社供養塔が、はたして庚申信 仰と密接不離な関係のものであったかどうかは疑問である。それらが庚申信仰に基づいて建てられた ものであり、庚申塔の他の条件を満たすことが実証されるならば、庚申塔として取り扱うことも、場 合によっては山王基準を新設することもよいと考えている。これは現在研究中の方もおられることだ から、今後の研究に待ちたい。従って、現状では、私は庚申塔とも認めにくいから、例示した北区赤 羽町(当時)の寛永16年塔は庚申塔とはみていない。

次にウーン種子塔をとりあげてみよう。ウーン種子は、青面金剛を表す種子として用いられること は、多くの青面金剛刻像塔に刻まれていることからも知られるが、ウーン種子以外にも、カーン種子 やバン種子などを用いる場合がある。またウーン種子自体も、必ずしも青面金剛のみを表すとは限ら れていない。そこに基準適用の問題点が生ずるのである。ウーン種子即青面金剛であるならば、資格 基準のB項適用の拡大解釈によって、青面金剛を示す文字と解して、ウーン種子塔は資格基準B項適 用となろう。しかし、ウーン種子は青面金剛に限らず、明王部と天部の通種子であって、金剛夜叉明 王や愛染明王などにも用いられており、青面金剛の専売特許ではない。それ故に、現状ではB項の拡 大解釈によらず、他の基準の合否によるのが望ましい。そして、多くの塔資料を集めて、ウーン種子 が青面金剛を表すと認められる期間の研究を進め、その上で、その時期以降のウーン種子のB項拡大 解釈を適用するのが妥当であると考える。

最後に「道祖神」の文字を刻む塔(三猿付)が、庚申塔であるかどうか、という点について述べよ う。単に「道祖神」とだけ刻む塔については、これを庚申塔とは認めないけれども、資格基準のA項 (銘文)なり、E項(三猿)に合致する場合の塔については、庚申塔とみてさしつかえないのではな かろうか。この場合に問題となるのは、「道祖神」の文字を庚申の主尊とみるか、あるいは造塔目的 とみるかにある。「道祖神」を造塔目的とみる限りにおいては、庚申塔として取り扱うことはできな い。しかし、本来の文字通りの道祖神とは、A項なりE項なりで明らかに区別できるのとなれば、庚 申塔と認めてよいであろう。そうして「道祖神」を文字通り道祖神と解し、造塔目的とみるとするな らば、文字によらず刻像の場合でも、例えば、地蔵や阿弥陀においても、刻像と文字の違いで、A項 なりE項なりによって庚申塔の資格基準を得ても、除外基準G項(造塔目的)に反する結果となる。 そうなると、B項(青面金剛)・C項(猿田彦)・D項(帝釈天)の3項に蔵しない刻像塔は、除外 基準G項に触れて庚申塔とは認められなくなってしまう。従って、道祖神塔はすべて文字塔、刻像塔 を問わずに、A項・E項あるいはF項の各項に合致するものは、造塔目的と考えずに庚申の主尊とし た解釈に立って、庚申塔の範囲内にあるものとみるべきである。

燈籠型庚申塔

今までの通念に対して疑問を感じた、と前に述べた。それというのは、実は燈籠型庚申塔のことで あった。この一文を書いた動機も、燈籠型庚申塔について考えたことに端を発している。それが段々 に発展して範囲の基準にまで拡がってしまった。ただし、ここでとりあげた燈籠型庚申塔は、すべて 三多摩地方のものであって、他の地方のものは含まれていないから、その点をまずお断りしておく。

檜原村下元郷にある明和4年の燈籠は『庚申塔の研究』に、清瀬町中清戸の日枝神社境内にある寛 文4年の燈籠は「庚申塔年表補遺」(『庚申』第25号)に載っているから、一般には庚申塔として 認められているということができる。もっとも、後者については、庚申塔と考えていない人もあるけ れども、私は通念によって今まで庚申塔と判断して、そう取り扱ってきた。ところが、先日の檜原村 の調査で、下元郷の燈籠について改めて考え直す機会を得た。そしてこの燈籠だけでなく、三多摩の 燈籠型庚申塔についても再考した。

下元郷の講調査の時に、地元の老婆が昔は庚申さま(寛保3年の青面金剛刻像塔)の前には2基の 燈籠があったけれども、今は1基になってしまった、と話してくれた。そこでこの燈籠(明和4年) も庚申塔ですよ、といったところ、でも庚申さまはあれ(寛保3年塔)だといってきかなかった。

地蔵刻像の庚申塔を今では地蔵としてお祀りしている所が稲城町(当時)でみられるから、造塔当 時と現在のズレはあるのかもしれない。だから下元郷の場合でも、燈籠を庚申塔として建てたのかも しれない。しかし、老婆の目から見て、燈籠を庚申塔とすることは納得できないようだった。

まず、この燈籠を基準に当てはめてみよう。しかし基準では竿石に「庚申塔」とあるから、A項の 条件を満たしている。除外基準ではH項に触れるかどうかが、この燈籠を庚申塔とみるかみないかの わかれめである。つまり、燈籠にははたして独立性があるのかどうか、の問題である。

茶人が自分の墓に燈籠を用いている例があるから、燈籠自体1基の墓石として独立性がある。しか し、神社や寺院にみられるように、一般的にみて燈籠は奉納物的性格が強いのではなかろうか。庚申 塔や庚申塚に燈籠を奉納している例は、八王子市下川町、秋多町(現・あきる野市)上菅生、府中市 中河原、三鷹市中仙川などにみられる。こうした点を考え合わせると、下元郷の場合も奉納物的性格 が強いのではないかと思われる。また、寛保3年の庚申塔と切り離して、はたしてこの燈籠が存在し たかどうかも疑問である。とすると、老婆のように、庚申さまとそれに奉納された燈籠とみるのが妥 当かもしれない。

清瀬町の燈籠の場合は、下元郷の場合よりも明瞭で、「奉納山王御宝前諸願成就為也」の銘文は、 明らかに山王宮に対する奉納物と考えられる。従って、この燈籠は、庚申塔の資格基準のE項(三猿 基準)に該当するとしても、除外基準H項(奉納物基準)に反するので、庚申塔とはみられない。

これら2基の燈籠の外に、今まで庚申塔としてあげた三多摩の燈籠には、

  1. 宝暦4年 清瀬町中清戸
  2. 宝暦11年 檜原村大沢
  3. 元治1年 久留米町下里
  4. 明治15年 久留米町門前

などがある。いずれの燈籠も庚申塔と同じ場所にあるか、神社の境内にあって、はたして庚申塔とし て建立されたものかどうか不明である。しかも、奉納物とみるほうが適当と思われる。従って、これ らの燈籠型塔は庚申塔とは考えられない。ただ、それらの塔を単なる庚申塔や庚申祠への奉納物と区 別する必要があろう。

そこで、庚申信仰石造物を私は次のように分類してみた。

庚申信仰石造物分類

庚申塔については、前に述べた範囲基準内の塔を指すことはいうまでもない。次の準庚申塔は、資 格基準に適合するが、除外基準に触れるものを指す。準庚申塔は、庚申塔に準ずるもので、伝承的な 塔もこれに加えた。奉納物は、庚申塔や庚申祠に奉納した石造物で、準庚申塔を除いたものである。 関連石造物は、他の目的(庚申信仰以外の目的)で庚申講が建てた石造物で、庚申塔や庚申塚の由来 を刻んだ石造物などを含む。

むすび

庚申塔の調査研究が全国的規模に拡がった現在、庚申塔の範囲を明らかにすることは、研究者間の 無用な誤解や混乱を避け、各地間の比較を容易にするために必要なことである。そこで私は私なりに 清水長輝氏が『庚申塔の研究』で示された基準を基にして、庚申塔の範囲の基準を作ってみた。 私 の庚申塔の範囲の基準は、資格基準6項と除外基準3項からなっている。庚申信仰石造物の中で、資 格基準の1項以上に該当し、かつ除外基準に触れないものを庚申塔とした。しかし、この基準を実際 に適用してみると、種々の問題が生じてくる。それらの問題は、今後の研究に待つ点が多い。

本文を書く動機となったのは、燈籠型庚申塔で、私はこれには独立性の点で疑問があるので、準庚 申塔と区別した。ただし、ここでは三多摩の場合のみを考察した。

この私の範囲基準については、独断もあろうし、誤りもあろう。そして、各人各様の意見があると 思う。その意見の中から、共通の尺度としての基準が生まれることであろう。

                      

初出

『庚申』第46号(庚申懇話会 昭和42年刊)所収

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