平成12年7月6日(木曜日)と11日(火曜日)は、文京・新宿・渋谷の都内参区にある改刻塔を巡った。 この発端となったのは、後でふれるように本会(日本石仏協会)主催の写真展「石仏の魅力」の初日の開場が午後1時からというので、 待ち時間を利用して久方ぶりに春日・牛天神(北野神社)に向かったことである。 牛天神の境内にある「道祖神」塔を改めて観察すると、改刻の跡がみられる。 そこで、この時の顛末をまとめて『野仏』第31集(多摩石仏の会 平成12年刊)に「牛天神の庚申塔」を発表した。
6月末に受け取った本誌第94号には、第96号特集「神社の石造物」の原稿募集が載っていた。 そこで「神社石造物の改刻」を書いてみようと考えて、先に発表した「牛天神の庚申塔」に他の改刻塔を加えて構想を練り、 7月1日(土曜日)に1日かけて原稿を執筆した。 第1稿ができてみると、心もとない点が数カ所みられた。 原稿の締切りは9月末日なので、まだ時間的な余裕が充分にある。 もう一度これらの塔をじっくりみてから決定稿をまとめようと考え、 6日と11日の両日に改めて改刻塔を巡りを実行し、その結果をまとめたのが本稿である。
現在では、埼玉県行田市を中心に忍藩領にみられる塞神塔が庚申塔の改刻であることは、 庚申塔研究者のみならず一般に広く知られている。 1つには荒井広裕さんが『日本石仏事典』(雄山閣出版昭和50年刊)の「塞神塔」の項目を担当され、 その文中で「在来の庚申塔の表面を削除して『塞神』の文字を刻んだ塞神塔が埼玉県行田市周辺に多い。 (中略)これは明治初年に忍藩領の行った神仏分離政策の落とし子である(後略)」(232頁)と述べたことから、改刻の事実が一般化した。
昭和39年6月に開かれた庚申懇話会の例会では、 荒井広祐さんが熊谷市と行田市周辺に分布する庚申塔が塞神塔に改刻された経緯について発表があった。 この時に荒井さんは平田篤胤門下の木村御綱が忍藩領の社寺掛を勤め、 その指導によって庚申塔が塞神塔に改刻された事実を指摘された。
その後、秋山正香さんが「武州忍領界隈における塞神塔について」を『庚申』第39号(庚申懇話会 昭和40年4月刊)に発表されて、 塞神塔の改刻がさらに関心をひくようになった。 同年9月刊の次号では、横田甲一さんが「庚申塔の改刻及び追刻」を書かれている。 当時は、極く限られた庚申塔研究者の間でしか塞神塔の改刻について関心がなかった、 というより一般的には改刻の事実を知らなかったという方が適切かもしれない。
東京都多摩地方では、一部の猿田彦塔に改刻の形跡が残っている。 私は、青梅市御岳御岳2丁目の滝本路傍にある宝永6年「猿(異体字)田彦大神」塔や あきる野市寺岡の路傍にある安永3年「猿田彦大神」塔が改刻塔である点を指摘した。
改刻ではないが、西多摩郡檜原村白光にある猿田彦刻像塔は、追刻の事例である。 この塔は文化11年の庚申塔で、現在は裏面に青面金剛刻像が浮き彫りされ、正面に猿田彦大神像がみられる。 しかし造立当時は青面金剛刻像が正面で、後になって裏面に猿田彦大神像が追刻され、 裏面を正面に向きを逆にされて現在に至っている。 追刻の一事例として、『野仏』第23集(平成4年刊)の「西多摩石仏散歩」の中でふれた(20頁)。
前記の埼玉の塞神塔や多摩の猿田彦塔とは趣旨が違うが、 渋谷区渋谷3丁目5番の東福寺にある文明2年(1470)銘の地蔵庚申と山角型文字庚申塔は、 寛文2年(1662)銘を改刻した塔であるのが知られている。 この2基については、すでに三輪善之助翁が『庚申待と庚申塔』(不ニ書房昭和10年刊)の「庚申塔の僞物」の項で、 「東京市澁谷の金王八幡神社の隣の東福寺に文明二年庚寅年に造立したる銘記ある庚申塔が二基あるが、 此二基共に全くの僞造物であって精々江戸時代の寛文頃より上らないものであることは既に一般識者の認むる處である」と指摘している(72頁)。
その後この年銘について、横田甲一さんが昭和41年の庚申懇話会例会で平野榮次さんから山角型塔の年銘の「文」の上に「宀」が残っているから、 寛文ではないかと教示を受けた。横田さんは、それがきっかけとなって調査した結果、年銘の改刻を明らかにされ、 昭和42年12月に刊行された『庚申』第50号に「東京都渋谷東福寺文明紀年銘塔に就いて」を発表された(14〜5頁)。 現在どちらの塔の年銘をみても、横田さんが指摘するように年銘の「文明」の部分が明らかに凹んでおり、 不自然である。干支の「庚」の字も「壬」を利用しているのがわかる。
こうした改刻や追刻の事実があるから、石造物の調査には油断がならない。 これから記す文京区春日・牛天神の笠付型庚申塔と新宿区高田馬場・諏訪神社の光背型塞神塔、 同区筑土八幡町・筑土八幡神社の光背型ニ猿塔は、神社境内にみられる石造物が改刻された事例である。 以下、順にそれらの塔について記す。
5月18日に訪れた春日・牛天神の境内には笠付型塔の正面に「道祖神」の主銘、 下部に三猿と3鶏の浮き彫りがみられる。 うっかりすとニ鶏と思うが、注意すれば雌雄の鶏の下に小さな雛鶏が1匹いるのに気付く。 この庚申塔については清水長輝さんの『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊)第52図の写真、 166頁の3鶏の例、201頁で塔について説明されている。 以来、多くの本(例えば武田久吉博士の『路傍の石仏』226頁)で取り上げられているので、 実際に塔を見ないまでもご存じの方が多いだろう。
昭和45年4月27日に私がこの塔を最初みた時は、今も記憶も残っているが、 当時撮った写真が示すように社殿前の石段横に寝かされていて充分に調べられなかった。 その後に何度かこの塔をみているけれども、単独ではなくて見学会だったから、詳細に調べたことがなかった。
以前からこの塔や三郷市の寛文9年「申田彦大神」塔について疑問を感じていたが、特別に調査することがなかった。 これまでにも牛天神のこの塔については、多くの庚申塔関係の本に記されているが、塔面の改刻にふれていない。
もっとも三輪翁の『庚申待と庚申塔』、 大護八郎・小林徳太郎両氏の『庚申塔』(新世紀社 昭和33年刊)あるいは清水さんの『庚申塔の研究』などは、 忍藩領の改刻が知られてない時期の発行のためでもある。
縣敏夫さんは、最近発行された自著の『図説庚申塔』(揺籃社 平成12年刊)に「筆者は庚申塔・道祖神の両方を追求し続けてきた清水長明より、 資料の鳥瞰的視点からみて、改刻の疑いあるものと示唆をうけて再3訪れて検討した」と記し、(224頁)
の要約3点を挙げ、その後で「明治維新の廃仏毀釈の風潮を背景に改刻された塔が見られるが、 同じような事情から生じたものと考える」としている。
私自身も何度もこの塔をみていながら、これまでジックリと調べたことはなかった。 5月18日に時間をかけて塔面をよく観察して以前から予想していた通り、改刻の跡をみつけた。 先ず第1に気付いたのは、「神」の字と三猿の間に施主銘らしい銘が刻まれ、 それをつぶして読めなくしている箇所がある。 続いて清水長明さんが指摘するように、主銘の「道祖神」も塔面を彫りくぼめた上で彫られた形跡がある。
さらに両端の枠には、銘文が刻まれていたのを削った跡がみられ、左枠の上方には「為」の字が読み取れるし、 下部に「願主」や「衛門」の文字がかすかかにみえる。 さらに左右の両側面をみても、施主銘が何段にもわたって刻まれいたのを削った跡がみられ、 現在ある2段の施主銘が後刻された可能性がある。 年銘がどこに刻まれていたかわからないが、塔型や大きさからみて寛文から延宝の頃に建てられたと推定される。
先述の『図説庚申塔』に載った拓本からは、残念ながら僅かに上部に日輪の跡を感じさせるが、 銘文や改刻の跡がはっきりしない。 実際に肉眼で観察すれば、銘文を読み取れなくても、字を削った跡が残っていることは確認できる。
さらに7月6日と11日の両日にこの塔を再訪し、充分に時間をかけて塔の銘文をルーペを使って 解読した。その結果塔の正面上部の左右には、日月・瑞雲の陰刻を潰した跡がみられる。どうやら右 が月天で、左が日天とみえる。
さらに正面の右端(月天の横の部分)をルーペを使って読むと、 梵字らしい文字が続いている(光明真言か)。 月天の下の部分を推測を交えながらの解読すると、 「延寳八庚申四月吉祥日 武州豊嶋郡□□村 福田權左衛門」と読んだ。 次いで、右端と同様に左端の銘文をみれば、 「奉供養庚申講中悉地□□二世安楽成就所 願主 □崎治衛門」と読める。 銘文の「□□」の部分は「現當」かもしれない。
推測が加わった銘文からは、この塔が今まで造立年銘が不明とされていたが、 延宝8年造立の庚申塔であることがわかる。 彫り窪めて現在の主銘が「道祖神」と改刻され、両端の銘文が潰され、 旧来の塔の浮き彫りされた三猿と三鶏がそのまま残されたことがわかる。 残念ながら、改刻以前の塔正面の状態は不明のままである。
石造物の改刻は、先に挙げた渋谷・東福寺の地蔵庚申のように造立年銘を古く刻む例がみられるが忍藩領で強行されたように、 明治初年の廃佛棄釈の影響が無視できない。 特にこれまで神社境内にあった仏教や民間信仰の石造物の中に、 神仏分離令が出されてから境内に置くに相応しくない石佛・石塔がある。 その場合にもそのままに置かれたものもあろうが、改刻が行われた事例がある。
5月21日(日曜日)には多摩石仏の会5月例会が催され、関口渉さんの案内で新宿区内をまわった。 午後の見学の終わり近くに、西早稲田から高田馬場1丁目12番にある諏訪神社を訪ねた。 都内では数が少ないにしても、先の牛天神の笠付塔と同様に、 この神社の天和3年「塞神三柱」塔も忍藩領で行われたような改刻がみられる。
本誌の第86号に掲載された私の「多摩地方の塞神」の中で、都内にある2基の塞神塔にふれ、 その1基であるこの天和3年塔について「この光背型塔は、どうみても改刻塔である」と記した。 これも先に記した忍藩領内でみられる塞神塔の改刻の事実がわかったから、 塔を注意深くみるようになった賜物である。
神社の境内には、天和2年銘の光背型の塞神塔がある。この塔を解説して、
新宿区指定有形民俗文化財
塞神三柱の塔
所在地 新宿区高田馬場一丁目一二番六号
指定年月日 平成五年三月五日天和二年(一六八二)に造立された船形の石塔で、中央に「塞神三柱」、 その右側に「諏訪上下大明神」および「正八幡大菩薩」、 また左側に「天(以下欠損のため不明)」および「稲荷大明神」と刻まれている。 また、その上方には右に月形、左に日形が彫られている。
塞神は、村の境や峠に祀られる、境界を守護する神とされ、 石塔としては江戸時代に南関東地方を中心に盛んに造立された。
諏訪神社の塞神塔は区内で唯壱のもので、また「塞神三柱」の文字が刻まれた例は少なく、 大変貴重である。
平成六年六月 東京都新宿区教育委員会
と記された解説板がたっている。銘文は、解説板に書かれている通りである。 つけ加えるならば「稲荷大明神」の下に「天和二壬戌二月吉祥日 奉崇御手洗從當社勧請」の銘文が刻まれている。
この塔は、中央部を彫り窪めて「塞神三柱」の主銘にした改刻塔である。 主銘の下には「武州」らしい文字などを削り取った跡がみられる。 下部の蓮台も前面の蓮華文を削り落とし、わずかに側面に蓮華の文様が残る。 塔自体をみても、塔面から前にでる基部の蓮台までの幅が不自然に広い。 恐らく年銘も削り取られたものであろうが、塔型から考えて旧来の塔が造立された年銘を使ったと推定される。
例会に続いて7月6日と11日にこの塔を再訪し、充分に時間をかけて塔の銘文をルーペを使って解読した。 特に、頂部中央に刻まれた銘文に注意する。 それは「カ 奉造立地蔵菩薩」と「為二世安楽也」の2行である。 その横に「寛文四□戌四月日」らしく読めるがはっきりしない。
左端にある「天和二壬戌年三月吉祥日 奉崇御手洗從當社勧請」の中で、 特に問題となるのは「御手洗從」の解釈である。 これが人名ならば、その関係や年代が手掛かりになって例えば宮司とか氏子総代などの神社関係者であるのか、 江戸末期から明治初年の人物であれば、改刻の証明ともなる。
この点が知りたいと思い、11日に社務所を尋ねて村岡賢1宮司にお会いする。 宮司は、明治42年にこの地で生まれて育った方で、記憶の限りでは御手洗姓に心当たりがないという。 御手洗といえば、かつて神社隣の玄国寺本堂裏に御手洗と呼ばれる水たまりがあり、 大正初年に埋められたそうである。今のところ「御手洗」については不明である。
6日にこの神社の後に廻った渋谷・東福寺の地蔵庚申(文明2年銘)をみて、 蓮台上が端から塔身との幅が10センチあるのは、この塞神塔が地蔵の立像を陽刻する塔ではなかったか、と推測した。
神社境内には、天和2年塔の他にも、貞享5年の庚申塔と承応3年の「キャ カ ラ バ ア 為逆修菩提也」塔の2基がみられる。 庚申塔が神社にあるのは普通であるが、梵字や「逆修菩提也」塔は仏教的色彩の強い塔である。 この塔があるのだから、先の塞神塔が当初から文字塔であるならば改刻されずにここに置かれた可能性が高い。 しかし地蔵を浮き彫りした塔となると、境外や寺院に移すのか、 改刻してこの塔のように「塞神三柱」と刻して現地に置くかだろう。
頂部の「カ 奉造立地蔵菩薩」の銘文から考えると、 地蔵の立像─恐らくは宝珠と錫杖をとる延命地蔵と考えられる─を陽刻する塔ではなかったか、 と推測するのが妥当かもしれない。 そうならば、蓮台の上が塔身からの幅が10センチあるのも不自然ではなく、充分に理解できる。
「寛文四□戌四月日」らしく読める銘があるのが疑問点の1つであるが、 いずれにしても左端の年銘は後刻と考えられる。 塔型や法量からみて、寛文4年から天和2年までの年銘でも許容できる範囲である。 行田周辺にみらるように、正面を「塞神」と改刻しても、年銘をそのまま残す傾向から考えると、 後でふれる筑土八幡社の寛文4年塔と同様に本来の年銘が消され、旧来の塔のものが後刻された可能性が高い。
いずれにしても天和3年銘の「塞神三柱」塔は、 基部に刻まれた蓮葉の模様を両側面に残しながら正面部分を削り取り想像の域を出ないが、 地蔵立像を削り落として「塞神三柱」の主銘とその両横に「諏訪上下大明神」や「正八幡大明神」「天(以下欠失)」「稲荷大明神」の銘文を刻んだ改刻塔と考えられる。 現在の「天和二壬戌二月吉祥日 奉崇御手洗從當社勧請」の銘文は、後刻である。
牛天神から余り離れていない新宿区筑土八幡町2番1号の筑土八幡神社には、 境内に寛文4年銘の桃持ちのニ猿を浮き彫りにする光背型塔がみられる。 各書に紹介されて著名である。 この塔も、多くの庚申塔研究家から造立の年代が疑問視されている。 ただこの塔が庚申塔であるかどうかの判定については、研究者の間で意見がわかれている。
石段の途中にはこの塔の解説板がみられ、これには区登録文化財(建築物)の石造鳥居を解説した後で、
新宿区指定有形民俗文化財
庚申塔
※この石段を上って右側にあります。
指定日 平成九年参月七日寛文四年(壱六六四)に奉納された舟型(光背型)の庚申塔である。高さ壱八六センチ。 最上部に日月、中央部には壱対の雌雄の猿と桃の木を配する。 左側の牡猿は立ち上がり実の付いた桃の枝を手折っているのに対し、左側の牝猿はうづくまり桃の実を持っている。
弐猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく、大変貴重である。
平成九年五月 新宿区教育委員会
と記され、この塔を写した写真が挿入されている。
この塔は、立って右手で桃の枝を持っている牡猿(像高86センチ)とうずくまって桃を持って座る猿(像高56センチ)に桃の木を配している。 牡猿は性器をさらしてはっきりしているが、他の猿は足を揃えた横向きで雌雄が不明である。
猿や桃のバックは梨地で、日月のバックとは彫り方が異なる。 それから考えると上部の日月・瑞雲を含む上方27センチの部分は、旧来の部分を残したようにみえる。 しかし桃の実や立っている牡猿の出っ張りから想像すると、旧来の部分を残したとみるのは不自然と思える。 その点には疑問が残るが、上下にアンバランスな所を残す点が作為的で、いかにも改刻を思わせる感じがする。
清水長輝さんは、『庚申塔の研究』の159頁でこの塔にふれ、 「寛文四年という年紀はにせもので、おそらく江戸末期の作であろう」としている。 その根拠として、
などの理由を挙げ、「これは江戸末期の好事家がつくった戯作で、庚申塔ではあるまい」と結論付けている。
基部に刻まれた施主銘「金村仁兵衛」と「福田新左衛門」の間には、 小さく「干時寛文四□□閏」と読めそうな字が刻まれている。この塔の塔型や法量からみて、 寛文期の造立はうなずける。 従って闇雲に両側面に「干時(異体字)寛文四甲辰年」「閏五月廾九天」と刻んだのではなく旧来の塔の造立年銘を刻んだ可能性が高い。
しかし清水さんが挙げた理由から、現在の塔面のニ猿などの刻像は江戸末期の推定が妥当である。 疑問点があるが、上部の日月と基部の施主銘を残して、塔の中央部分を現在のニ猿と桃の木の図に改刻し、 後刻にしても旧来の年銘を側面に残したものと想像される。
この塔の場合は、清水さんのいわれたようにニ猿の刻像に限れば江戸末期が妥当である。 元の塔は不明であるにしてもまだ推測の域をでないが、おそらく旧来の寛文4年塔の年銘を側面に刻み、 正面を改刻して現在のニ猿塔に仕上げたのではないか、と私は推測している。 この塔については疑問が残るが、現在のところ牛天神や諏訪神社の石塔に比べると、改刻の跡が明白ではない。
本稿では、都内の神社にある石造物の中で改刻された状況について記した。 漠然とみては見逃してしまうが、時間をかけて観察すれば思わぬ事実が明らかになる。
これまで、今回ほど改刻に注意して銘文を読んだことはなかった。 机上での予測や推測も必要ではあるが、何といっても現物に当たることが重要である。 疑問があれば、どこまでも追求する必要がある。2回にわたる改刻塔巡りを通じて、その点を痛切に感じた。
ともあれ、神社の境内にある石造物の中には、牛天神や諏訪神社の実例があるように、 改刻された事例がみられるから単純に塔に刻まれた表面上の銘文だけにとらわれては誤りを犯す結果となる。 充分な注意が必要である。
平成12年7月14日 記
『日本の石仏』第96号(日本石仏協会 平成12年刊)所収