庚申塔物語

庚申塔の話

庚申塔の話

石仏石塔には、いろいろな種類がある。阿弥陀さんや大日さんなどの如来の像を刻んだもの、観音 さんやお地蔵さんなどの菩薩、お不動さんなどの明王、あるいは弁天さんや毘沙門さん・大黒さんな どの天部の刻像、それらを種子や文字で現したものもある。そうした仏教系統のものばかりでなく、 道祖神のように民間信仰からうまれたものまで石仏に含めている。石塔には、五輪塔や宝篋印塔・宝 塔などがある。これからお話する庚申塔は、そうした石仏や石塔の一種であり、路傍や寺社の境内な どで見掛ける。

見知らぬ土地を訪ねた時には、私は時間の許す限り寺や神社を廻る。市街化の進んだ所では、そう した場所に石仏が集められている確率が高いからだ。石仏の中に庚申塔を発見した時は、他人にとっ てそれがどんなにつまらない塔でああっても、私にとっては嬉しいのである。それほどに私は、庚申 塔に魅せられているのだろう。

道祖神、とりわけ双体道祖神は、肢体が変化に富むし、地域性が現れていて面白い。細かに調べる と謎の部分が多い。しかし、分布している地域が限られているし、庚申塔に比べたら、いろいろな面 で変化に乏しいように思われる。

私が庚申塔に惹かれるのは、第一に北は北海道から南は鹿児島に至るまで、全国的に分布している 点だ。その上、各地でその地域性を現している。このことは、身近に庚申塔を見られることを意味し ているし、旅先などでも見る機会が多いことになる。

第二に主尊1つとってみても、後で述べるように多くのものが登場し、実に変化に富んでいる。塔 の型式にしろ、猿の姿態などにもみりべきものがある。そのために、庚申塔を充分に理解するには石 仏や石塔に対する知識が欠かせない。

第三には全国的に、しかも多量に分布し、変化に富んでいるので、思いがけない発見がある。今ま で知られなかった主尊の庚申塔が見つかるなどという未知の部分があって、発見の楽しみがある。 さて、これまでに「庚申塔」という語を使っていたが、庚申塔とは一体何であろうか。庚申塔は、庚 申信仰の産物であることには違いない。庚申信仰については別項で述べられるので、ここでは庚申塔 に関する最小限にとどめるが、旧暦の場合、庚申の日−60日毎に廻ってくる−が年に5回の年 も、7回あることもあるけれども、通常は年に6回ある。従って、3年間に18回の庚申日(アタリ 日)がある。

庚申日に庚申待を続けて行うと、「一切ノ願望、此内ニ成就セヌト云事ナシ……」(大分県宇佐八 幡宮『庚申因縁記』)といわれ、三年一座(18回の庚申待を連続して行うこと)を済ませ、庚申供 養のために石塔を造立した。この時の石塔が庚申塔なのである。東京都豊島区高田・金乗院(目白不 動)境内にある寛文8年塔に刻まれた「奉待庚申講一座二世安楽所」の銘文は、このことを示してい る。

庚申塔が建てられるようになったのは室町時代以降のことで、現存中最古のものとしては、埼玉県 川口市領家・実相寺の文明3年(1471)銘板碑があげられる。江戸時代に入って、庚申塔は各地 で造立されるが、寛文年間から多くなり、元禄年間には広く建立されている。庚申さまとして知られ ている青面金剛(しょうめんこんごう)は、文字塔では天正19年(1591)に初出しているし( 宮崎県西諸県郡高原町広原)、刻像では神奈川県茅ヶ崎市甘沼・八幡社(神奈川県立博物館で保管) の承応3年(1654)が最も古いとされている。私の見た範囲で最も新しいものは、東京都調布市 佐須町・虎柏神社境内にある昭和51年10月造立の青面金剛刻像塔である。

庚申塔の範囲

これまでしばしば「庚申塔」といってきた。これからも用いる「庚申塔」は、三年一座(18度) の庚申待を済ませて庚申供養のために造立された石塔だ、と定義づけることはたやすい。「庚申塔」 とか「庚申供養塔」と刻まれた石塔ならば、問題は生じないだろう。しかし、実際に各地にある多く の庚申塔に接してみると、これが「庚申塔だ」と明確に断定できない場合があるし、迷うことがしば しばだ。

例えば、地元の人達が「庚申塔」と呼んでいるけれども、何の銘文も刻んでいない自然石は、はた して庚申塔といえるだろうか。庚申に関係した銘文は一切なく、主尊に馬頭観音だけを刻んだものは どうなのだろうか。また「ウ−ン」の一字だけ彫ったものはどうか、他にもそうした例がある。

山王廿一仏種子を刻んだ塔も、そうした一例である。埼玉県草加市稲荷町・慈尊院境内には、上部 に山王廿一仏種子のある板碑型の文字塔が3基並んでいる。向かって右端のものは、寛永13年(1636) の建立で「奉果庚申待二世成就攸」と刻まれている。中央の正保4年(1647)塔と左端 の承応元年(1652)塔には、右端の塔にみられるような庚申に関した銘文はない。

右端の寛永の塔は、誰も問題なく庚申塔として認めている。しかし、中央と左端の両塔は、はたし て庚申塔とみなしてよいのかどうか、問題が残る。庚申信仰イコ−ル山王信仰であれば、そうした議 論の余地のないところだ。ところが両者は、密接な関連は持つものの、それぞれ相互に独立した信仰 である。そこで、庚申に関係する銘文がなく、山王廿一仏種子を刻んだ塔は、単独の山王信仰による ものか、それとも、そうした銘文はなくても庚申信仰と結びついて建立されたものか、見方のわかれ る点である。その判断によって、一方では庚申塔ではないというし、他方では庚申塔だと主張する。

山王の場合だけでなく、猿田彦を主尊にしたものは道祖神かの問題が起こるし、他にもいろいろな 事例にぶつかる。そうすると、一体、庚申塔とは何なのか、について考えざるをえない。そこで、庚 申塔の範囲をどの辺におくかが問題になり、その線引きの基準が求められる。

現在のところ、残念ながら庚申塔の範囲を明確にする基準はない。研究者個々の判断にまかされて いるのが現状である。ここでは、清水長輝氏が『庚申塔の研究』の中で示された範囲基準を土台に私 案を述べよう。

私の範囲基準というのは、資格基準と除外基準とに大別される(表1)。

表1.庚申塔の範囲基準
資格基準 (銘文基準)
庚申信仰によって建てたことを銘文にしるしてあること
(青面金剛基準)
青面金剛の像か文字を刻んだもの
(三猿基準)
塞目・塞耳・塞口の三猿か、その1部があって他の造塔目的をしるしているもの
(類似基準)
三猿形態以外の猿でも、塔の全体が他の庚申塔と類型的なものや、日月や鶏などを伴っておおむね庚申信仰のために建てられたことが推測されるもの
(猿田彦基準)
猿田彦の像か文字を刻んだもの
(帝釈天基準)
帝釈天の像か文字を刻んだもの
除外基準 (造立目的基準)
施主が庚申講中であっても他の目的で造立したものを除く
(奉納物基準)
庚申塔や庚申祠への奉納物を除く
(伝承基準)
自然石など伝承的なものを除く

庚申塔かどうかの判定は、資格基準6項目中のいずれか1項目以上に該当し、除外基準の3項目に ふれないものを庚申塔とする。

庚申塔の変遷

室町時代に始まった庚申塔の造立は、現在まで約五百年の歴史を有するが、その間に内容的にも外 観上からも塔の変遷がみられる。清水長輝氏は、東京付近を中心とした場合の塔の変遷を四期に大別 している。

第一期は板碑時代(室町〜安土桃山時代)、第二期は混乱時代(元和〜延宝年間)、第三期は青面 金剛時代(天和〜天明年間)、第四期は文字塔時代(寛政以降)である。関東地方は、ほぼこのよう な傾向が認められる。地域により、その区分年代のズレがあり、第一期が欠ける所がみられる。

山梨県北都留地方における変遷をみると、第一期に当たる板碑時代がなく、第二期が寛文から享保 までの石祠併立時代、第三期が天明までの青面金剛時代、第四期が寛政以降の文字塔時代と区分でき る。

このように、地域差があり、変遷にもズレがみられる。信仰の内容や外観上にも差異があるから、 各地における傾向を相互に比較すると、地域特性が明らかになり、年銘を欠く塔の造立年代の推測に は欠かせない。

庚申塔の施主

庚申塔を建立した母体は、多くは庚申講である。稀には個人で造立する場合もみられるが、塔に刻 まれた個人銘だけをもって、個人の造塔と速断はできない。項の指導者の名で建てられたり、多くの 喜捨を仰いで造立された場合もあるからだ。

庚申塔に刻まれた施主銘を見ると、法名と一般の人達の名がある。法名には、僧侶の名前だけでな く、仏門に帰依した在家の人達も含まれる。

一般の人達の施主銘には、男子銘と女子銘がある。男子銘の場合には、単に名前だけのものや姓を ふしたもの、あるいは職業や屋号を記したものもみられる。女子銘では、単に名前を記したものの他 に「五兵衛母」とか「権十良内儀」のようにきざまたものもあり、夫婦連名の場合も認められる。  施主銘には、個人銘のほかに、「講中」とか、「善信女二十二人」のように、一括して記す場合も あり、代表者の名前を刻む例もある。

庚申塔の形態

これについてはすでに本誌『あしなか』130輯で述べたので、個々では簡単にふれておこう。

庚申塔を外観上から分類すると、庚申板碑・庚申石祠・一般庚申塔・特殊庚申塔に4大別できる。 私達が普通見ているものは、一般庚申塔である。これは、さらに板碑型・光背型・板駒型・笠付型・ 駒型・柱状型・自然石・丸彫り・雑型の9種に細分される。

庚申板碑は、庚申供養のために建立された板碑をいい、庚申石祠は、石祠型式の庚申塔である。特 殊庚申塔は、磨崖・五輪塔・宝篋印塔・層塔・石燈籠・石幢などで、庚申供養のために造られたもの を呼ぶ。

一般庚申塔は、各地で見る機会があるから省略して、その他のもので東京都にある例を1件1例で 紹介しておく。


年銘所在地
庚申板碑長享2年練馬区石神井台1丁目 石神井図書館
庚申石祠元禄8年足立区綾瀬2丁目 北野神社
五輪塔正保3年杉並区永福1丁目 永福寺
宝篋印塔寛永3年目黒区中目黒3丁目 十七ガ坂墓地
層塔明暦4年調布市深大寺町 城跡
石燈籠寛文9年北区田畑町 与楽寺
石幢承応2年杉並区1丁目 西方寺

変化に富む主尊

庚申塔の本尊として青面金剛が定着して普及するまでは、塔面にさまざまな主尊が登場する。庚申 とを調べる楽しみの1つは、主尊の多様性にあるといえよう。実に変化があって、通常目にする石仏 の多くが主尊として迎えられている。東京都で見られるものを1件1例で示すと、

主尊年銘所在地備考
釈迦如来延宝6年文京区大塚4丁目 大塚公園
阿弥陀如来元和9年足立区花畑町 正覚院来迎3尊
阿弥陀如来貞享1年文京区関口2丁目 大泉寺来迎1尊
定印弥陀寛文2年大田区大森北3丁目 密蔵寺
合掌弥陀元禄9年町田市木曽町 観音堂
薬師如来正保4年板橋区志村1丁目 延命寺
大日如来承応3年台東区浅草2丁目 銭塚地蔵胎蔵界
聖観音寛文3年大田区田園調布1丁目 密蔵院
馬頭観音宝永7年板橋区大原町 長徳寺
如意輪観音延宝6年荒川区南千住6丁目 素盞雄神社
卅四観音享保5年江戸川区東瑞江2丁目 下鎌田地蔵堂
地蔵菩薩万治2年墨田区向島5丁目 長命寺
六地蔵元禄15年町田市野津田町丸山
勢至菩薩元禄11年青梅市吹上 本橋家
不動明王貞享1年八王子市館町 梅元庵
倶利迦羅寛文6年豊島区高田 金乗院(目白不動)
帝釈天明治14年目黒区平町2丁目 帝釈堂
仁王元禄10年足立区本木町 三島神社
閻魔王貞享2年北区中十条2丁目 地福寺
猿田彦文化11年檜原村白倉
狛犬享保6年新宿区柏木4丁目 鎧神社
御幣猿延宝8年世田谷区給田 観音堂

などがあげられる。神奈川県では、富士の御師が発行した升形牛宝の掛軸の図柄を塔に刻んだものが みられるし、聖徳太子や双体道祖神を主尊とした塔がある。

全国各地に分布する庚申塔の中には、以上にあげた主尊以外の刻像が見られるかもしれない。まだ まだ未知の主尊が現れる可能性を残している。

青面金剛のいろいろ

文字塔には、早くから現れていた青面金剛ではあるが、刻像として登場するのは承応年間以降であ る。寛文年間には各地で造立されるようになり、元禄年間には広い地域にわたり、しかも量的にも一 段と多くなる。以後、青面金剛は、庚申の主尊としての王座を占め、他の主尊を引き離し、刻像塔を 独占して青面金剛時代を現出する。

伝尸を駆除する青面金剛は、伝尸と三尸の関連から庚申信仰に取り入れられ、礼拝本尊に加えられ る。江戸時代には広く各地に普及して、庚申の主尊として定着する。青面金剛は、『陀羅尼集経』に その像容が説かれているけれども、現在各地でみられる青面金剛は、経軌に示された2童子・4薬叉 を伴う2鬼上に立つ3眼4手像とは異なっている。一般には、中央の2手が合掌あるいは剣と人身を 持つ6手像が造立された。

青面金剛は、経軌に説かれた形ではなく、6手像が主流となるけれども、各地の刻像を調べてみる といろいろと変化が認められる。そうした例を東京都の塔から1件1例で示してみると、


年銘所在地備考
2手寛文6年三鷹市中原4丁目 菊地宅角
4手明和1年小平市御幸町 海岸寺(現亡)
8手文化12年府中市天神町3丁目 路傍
3面宝永6年田無市本町3丁目 総持寺
座像元禄3年杉並区成田西3丁目 宝昌寺
陰刻宝永5年小金井市前原町5丁目 共同墓地
丸彫正徳4年保谷市泉町2丁目 路傍

などがあげられる。なお儀軌に記されてた4手像ではないが、2童子と4薬叉を伴って鬼上に立つ6 手像の例として、板橋区板橋4丁目・東光寺の寛文2年塔を加えておく。

文字塔あれこれ

一般に多く造られた文字の庚申塔では「庚申」とか「庚申塔」「庚申供養塔」と彫られている。比 較的早い時期に建てられたものでは、そのような簡単なものではなく「奉待庚申十六仏成就供養所」 あるいは「為庚申待意趣者二世安楽也」「奉造立石塔一基庚申現当二世攸」「奉造立庚申待一座供養 各一結現当安楽所」(以上東京都の例)などのように長いものが多い。

文字塔においても「青面金剛」や「青面金剛明王」「青面王」などのように、主尊の尊名を刻むも のがみられる。「帝釈天王」「猿田彦大神」「山王大権現」「道祖神」などはそうした例である。ま た、「南無阿弥陀仏」の六字名号や「南無妙法蓮華経」の題目をほったものもある。

「庚申」系統の文字塔を集めても、バライティがあり、前記以外にも「庚申塚」「庚申墳」「庚申 碑」「庚申燈」「庚申尊」「庚申講中」「庚申仏」「庚申神」「甲申当」「甲申塔」「庚甲塚」「五 庚申」「七庚申」「百庚申」「千庚申」などがある。

百庚申の一石文字塔の中には、単に「百庚申」と彫ったものもみられるが、群馬県下では「庚申」 を百様の字体で刻んだ塔がある。書家が腕をふるって書き上げている。縁起物の風呂敷に「寿」を様 々な形に書くと同じ筆法である。楷書体あり、篆書体もみられて、なかなか雅味のある塔だ。

さまざまな猿

山中共古翁は、庚申塔を「三猿塔」と称して、その著『共古随筆』の中に1章を設けている。三猿 塔とは、庚申塔の異称としてふさわしい位に、庚申塔と三猿との結びつきは密接である。

庚申塔の魅力の1つに、猿の姿態の変化があげられる。庚申塔を知らなくても、みざる・きかざる ・いわざるの3匹の猿が彫られている石塔だといえばわかるほど、三猿は庚申塔のシンボルである。

東京にある古い庚申塔に刻まれた三猿は、お行儀のよい菱形である。神奈川の三浦半島で見られる 三猿は、早い時期から横向きになったり、脚を延ばしたりして自由な姿勢をしている。いわば、東京 のが楷書的であるとすれば,三浦のは草書的であるといえよう。

東京でも、時代が下ってくると、菱形のお行儀のよいものがくずれ、烏帽子をかぶったり、狩衣や チャンチャンコを着たり、手に御幣や鈴、あるいは扇子などを持って、自由なポ−ズをするものが現 れてくる。桃の木にぶらさがる三猿や駒曳きの三猿なども刻まれている。千葉県野田市内にある庚申 塔の猿は、変化に富んでいて面白い。

庚申塔に彫られている猿は、圧倒的に三猿が多いけれども、一猿・二猿・五猿・群猿もみられる。

一猿の場合には、主尊として登場するし、一鶏を伴って下部に刻まれることも多い。二猿は、通常 横向きで拝む姿が多く、この型式のものを「日光型」とか「下野型」とか呼んでいる。五猿のものは 町田市広袴・天王山にある延宝5年塔に刻まれているもので、横向きの合掌二猿と三猿が同居してい る。群猿のものは、神奈川県藤沢市江ノ島にある無年記の塔に浮彫りされたもので、各書に紹介され て有名である。

一般に、庚申塔の猿の性別は、はっきりしない。しかし、よく観察すると牡牝の別が明らかなもの もある。目黒区下目黒1丁目・大円寺の寛文7年塔の三猿は、向かって右から牡・牝・牡の順に並ん でいる。文京区、新宿区や江東区の塔の中にも牡牝の区別できるものがあり、中には無性のものがま じっていたりする。

以上、東京都にある庚申塔を例にして述べてきたが、前にも書いたように庚申塔は各地に分布して いるから、それぞれの土地の塔と比較していただくと、その地域の郷土性が明らかになり、特色もわ かっていただけると思う。猿の姿態の変化をカメラで追うのも面白い。ともあれ、庚申塔に興味を持 って接していただければ、その魅力もわかっていただけるであろうし、この小文が少しでもそのきっ かけになれば幸いである。

紙幅の制約もあって、まだふれたい点も割愛しなければならなかった。詳しくは清水長輝氏の『庚 申塔の研究』を参照されるとよいが、現在では入手が難しい。入手可能のものでは故平野実氏の『庚 申信仰』(角川選書)が手頃だろう。庚申塔には、まだ未知の部分が残されている。山梨の矢島斉氏 は、茅野市内で「伊勢講供養」と刻んだ三猿塔を発見されている(同氏著『路傍の石仏』)庚申信仰 と伊勢講との習合を示す資料として貴重である。こうした例は、各地で調査が進めばあきらかになろ う。

初出

『あしなか』160輯(山村民俗の会 昭和53年刊)所収

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