庚申塔物語

新宿を歩く

新宿を歩く

平成12年5月21日(日曜日)は、多摩石仏の会5月例会である。 営団地下鉄丸の内線四谷三丁目駅1番出口に午前9時30分集合、関口渉さんの案内で新宿区内をまわる。 参加者は、明石延男さん・縣敏夫さん・犬飼康裕さん・遠藤塩子さん・喜井哲夫さん・鈴木俊夫さん・多田治昭さん・萩原清高さんの総勢10人である。

多少の時間の余裕をみて家を出たつもりだったが、集合地の四谷三丁目駅についたのが午前9時27分、集合3分前である。 新宿寄りの改札口を出たが誰もいない。 そのうちに遠藤さんがきて2人で辺りを探したが、誰も見つからない。 改札の駅員に聞いて、1番出口と反対側だとわかった。 慌てていたせいか3番出口に出ると、交差点の先に皆の姿がみえてホッとする。

関口さんから今日の案内リーフ「新宿の石仏〜四谷から早稲田へ」を、鈴木さんからは『東京都の庚申塔』の千代田区・港区編と新宿編の2冊をいただく。

集合場所から第1見学地の法蔵寺(若葉1-1)に向かう。 今回のコース全般にいえることであるが、関口さんが下見をして最短コースを辿ったために、 思わぬ細い裏道や通りを廻り、以前きた時の逆コースもあって見学場所がなかなかつながらない。

法蔵寺の墓地の入口には、寛文4年と宝暦5年の6字名号塔2基がみられる。 寛文塔は大きく、宝暦塔の笠部に蕨手があって異様な組み合わせになっている。 次いで日宗寺(若葉2-3)を訪ね、明治19年の丸彫りの浄行菩薩をみる。

坂の名になっている東福院(若葉2−2)の境内には、表1.-1表1.-2の庚申塔2基がある。

表1.-1は、合掌6手(像高37センチ)の青面金剛の下に三猿(像高10センチ)がみられ、 像の右に「諸願成就 柳原氏」、左には「享保二丁酉歳二月吉日」の年銘が刻まれている。

表1.-2は、上半部が欠失した破損の著しい塔である。 前面と左右の両側面の3面に猿(像高15センチ)を配しているので、かろうじて庚申塔とわかる。 前面中央の像(像高12センチ)は、下半部が残るのみで青面金剛と思われる。 左側面に「吉日」とだけ判読できる。

先に東福院に寄ってから、前を通りすぎた坂の途中にある愛染院(若葉2-8)を訪ねる。 境内の木陰に表1.-3表1.-4の2基の庚申塔がみられる。うっかりすると見逃す恐れがある。

表1.-3は合掌6手(像高38センチ)の刻像塔で、下部に三猿(像高14センチ)の浮き彫りがある。 像の右に祈願銘と施主銘の「奉供養庚申待諸願成就所 右京」、 左に年銘と施主銘の「元禄二己巳暦七月六日 玄順」の銘文を刻む。

表1.-4は、表1.-3同様の合掌6手の青面金剛(像高37センチ)、下部の一猿(像高21センチ)は御弊持ちである。 頂部に「バン」の種子、像の右左に「延宝八庚申天」と「十一月五日」の年銘が2行にある。

愛染院から西念寺(若葉2-9)に寄り、天保4年の十一面千手観音・服部半蔵の宝篋印塔墓塔・家康の長男信康の供養五輪塔をみる。 縣さんが体調が悪いので、この寺でリタイアする。

若葉から須賀町に入り、宗福寺(須賀町10)では表1.-5をみる。 この塔の中央部には「天和二壬戌年」と「十一月十七日」の年銘を2行に刻み、 下部に三猿(像高14センチ)、その下に「六人 願主 □□氏」の銘がある。

次いで訪ねた戒行寺(須賀町9)では、火盗改の長谷川平蔵の供養塔をみる。 平蔵は、池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公として有名で、吉右衛門が扮してTVで放映された。 続いて勝興寺(須賀町7)では、境内にある奪衣婆・白衣観音・閻魔、墓地にある3面馬頭の写真を撮る。

左門町に入って、於岩稲荷(左門町16)と近くの於岩稲荷田宮神社を訪ねる。 神社の玉垣の石柱には、村上元三や岩田専太郎の名前がみえる。

四谷4丁目4番の長善寺(笹寺)には、四谷勧進角力創始之碑・法華経千部供養塔・蝦蟇塚などある。 蝦蟇塚は、実験に使われたガマガエルの供養に慶応大学医学部が昭和12年に造立した。

自証院(富久町4−5)の境内には、現代の佛足石があり、後に挙げる3基の庚申塔が隙間なく並べられている。 塔がセメントで固定されていて、側面の銘文の有無がわからない。 例え銘が刻まれていたとしても、判読できない。

表1.-6は合掌2手の青面金剛(像高26センチ)で、像の左右に年銘の「貞享三丙寅暦」と「三月六日」を刻み、 下部に三猿(像高14センチ)がある。

表1.-7は、笠部が失われた正面に剣人8手の青面金剛(像高29センチ)が一鬼の上にたつ。 上方2手には日月、2番目の左手に持つのが丸輪がついた棒とみた。 鈴木さんの『東京の庚申塔 新宿区』24頁によると、左側面に「當院現住法主賢栄」の銘が記録されている。 この銘からみると、隣の塔が延宝8年だから、それ以前に造立さていた可能性がある。 また丸輪の棒とみたみたのは誤りで、鈴木さんの写真をよくみると、矛か錫杖である。

表1.-8は前面頂部に「ウーン」の種子、「庚申供養供養寳塔」と「現世安穏後生善處」の2行の銘、 下部に三猿(像高12センチ)がある。 この塔も7と同様に側面が読めない。先の『東京の庚申塔 新宿区』9頁によると、 左側面に「延宝八庚申年十一月廾九日 當院開基法主賢栄」の銘が記録されている。 住吉町10-10にある安養寺には、板碑型上部の欠けた表1.-9の庚申塔がある。

表1.-9は中央に「奉造立庚申供養」とあり、その下左右に「所願」と「成就」の2行、 右端の枠に「延宝五丁巳年 敬」、左枠に「六月十五日 白」、 三猿(像高16センチ)の下に山村長兵衛など6人の施主銘がある。この寺の参道で昼食にする。

月桂寺(河田町2-5)には茶室の庭に文字庚申塔があるが、立入禁止で門の外から境内をみるだけである。 続いて訪ねた来迎寺(喜久井町46)の境内には表1.-10がみられる。 上部に日月、中央に「奉待庚申現當二世悉地成就處」、下部左右に「同行」と「二十四人」、 三猿(像高19センチ)の下に11人と12人の2段の施主銘、その下に「願主」と「敬白」があり、 その間に1人の施主銘を刻む。 右端の枠には「武州湯原郡牛込馬場下町」、左枠には「延宝四年丙辰九月十六日」とある。 地銘の「湯原郡」から新宿区の指定文化財になっている。山門前には

新宿区指定有形民俗文化財

来迎寺の庚申塔

所在地 新宿区喜久井町四十六番地

指定年月日 昭和五十九年七月六日

延宝四年(一六七六)に造立された板碑型の庚申塔である。

石質は極めて固い玄武岩で、高さ一二〇センチ、上部左右に日月を配し、中央岩座に三猿、 下部に対面した雌雄の鶏が浮彫され、江戸時代前半の庚申塔の特色を示している。

また向かって右側に「武州湯原郡牛込馬場下町」の陰刻があり、江戸時代になってから中世 当時の古地名を記した史料として極めて価値が高い。

平成三年十一月

東京都新宿区教育委員会

と記す説明板がたっている。

ここまでのコースは、どこをどのようにと通ってきたのかよくわからなかったが、 夏目坂を下って早稲田通りに出るとわかる。 庚申懇話会編の『石仏の旅 東日本編』(雄山閣出版 昭和51年刊)では、 これから廻る観音寺(158〜9頁)や亮朝院(157〜8頁)について書いている。

西早稲田に入って、先ず放生寺(西早稲田2-1)を訪ねる。 この寺にある昭和62年の3面馬頭に興味がある。 もう1つ興味があったのは、トイレに「ウーン 烏枢瑟摩明王」と記す位牌が祀ってあることである。 このような位牌の例は初めてである。 4月23日(日)の庚申懇話会4月例会で私が青梅市内を案内した時には、 根ヶ布1丁目にある天寧寺(曹洞宗)の東司(便所)に祀る烏枢沙摩明王坐像をみたのを思い出す。

放生寺と地続きにある穴八幡(西早稲田2-1-1)には、4基の庚申塔があるが、 以前、庚申塔のあった場所には社殿が建って移動されている。 何故か庚申塔をみることはできない。ここでは、布袋の水鉢をみるだけである。

この神社に近い大安楽寺墓地(西早稲田2-1)には、2基の庚申塔がみられる。 予定のコースには入っていなかったが寄る。 通りから墓地に通じる細い道に表1.-11表1.-12の2基がたっている。

表1.-11は、頂部に「ウーン」の種子、中央に剣人6手の青面金剛(像高36センチ)を主尊とし、下部に三猿(像高9センチ)がみられる。 右側面には「享保九甲辰年庚申日」、左側面には「諸願成就所施主 稲垣氏」とある。

表1.-12は、上部に三猿(像高14センチ)がある塔で、 「ウーン」の種子の下に6人の施主銘を刻む。左側面に「庚戌十月廾四日 □□ 施主」とある。 この塔に該当する「庚戌」は、寛文10年・享保15年・寛政2年・嘉永3年であろう。 塔型が柱状型で、しかも上部に三猿を浮き彫りにする特徴からみると、享保15年の造立と推定される。

次いで龍泉寺(西早稲田1-1-12)にある表1.-13をみる。 上部に日月、中央に剣索6手の青面金剛(像高36センチ)、その下にニ鶏と三猿(像高15センチ)が浮き彫りされる。 青面金剛の上方左手は、人身ではなくて首を持っている。 像の右には「諸願」、左に年銘と施主銘の「元禄二己巳四月十八日 柄本源五右衛門」を刻む。 この塔をみていると近所の蕎麦屋の奥さんがきて色々と話をする中で、先々代が夏目家に天麩羅蕎麦を配達したという。

次に訪ねたのが宝泉寺(西早稲田1-1-2)には表1.-14がみられる。 頂部の「カンマン」の種子に続けて「奉待庚申」、 その左と右に「現世安穏受福楽」と「来将無為速成佛」の銘、 下部に三猿(像高17センチ)の浮き彫りがみられる。 猿の下に年銘の「延宝八」と「申正月」の2行がある。

続いて観音寺(西早稲田1-7-1)を訪ねる。 参道に石佛が並び、その中には、 表1.-15表1.-16の庚申塔2基が建っている。

表1.-15は、地蔵(像高73センチ)を主尊とした庚申塔、 像の右の「奉侍庚申三年一座為逆修佛果菩提敬」が庚申塔であることを示している。 頂部に「バン」種子、像の左には、年銘の「寛文四年甲辰三月吉日 武州豊嶋郡戸塚村 白」とある。 下部には8人の施主銘を刻む。像の足元には「為父母」が左右に各4行ずつ彫られている。 これは、施主8人のそれぞれの父母を指しているのだろう。

表1.-16は聖観音(像高74センチ)主尊の庚申塔、像の右の「奉侍庚申供養現世伍諸為佛果菩提也」の銘文で明らかである。 像の左に「寛文七丁未年十二月五日 武州豊嶋郡牛込戸塚村」、像の足元には右に「為道西」など、 左に「為浄□」などの銘を刻む。 表1.-15表1.-16も「奉待」ではなくて「奉侍」となっている。

先述の『石仏の旅 東日本編』には、この庚申塔にふれて以下のようにと書いた。

早稲田大学の正門から近い所に真言宗の観音寺(新宿区西早稲田1丁目7番)がある。 境内に入ると、右手に聖観音と如意輪観音石仏墓標を主体とした無縁塔がある。 左手にはいつも自動車が駐車していて真正面からゆっくり見られないのが残念であるが、 手前(入口)からから寛文7年(1667)の聖観音主尊庚申塔、次いで年不明の聖観音立像、 後で述べる弁才天、寛文4年(1664)の地蔵主尊の庚申塔、 元禄12年(1699)の聖観音墓標が並んでいる。(158頁)

執筆当時と比べ、寺の本堂が建て替わり、奥にあった恵比須・大黒が入口に出てきて、 辺りの光景も以前とは変わっている。 今回は、石佛の前に車が駐車してないから正面から写せる。

亮朝院(西早稲田3-6-24)には、境内に宝永2年の仁王があることで知られる。 墓地には、帝釈天主銘の表1.-17の塔がある。

この塔は正面に「奉勧請菜夢帝釋天王」と下部に横書きの「敬白」、 右側面に「干時享保乙巳天」左側面に「三月二十二庚申日」とある。 裏面には、上部に横書きで「眞心」、中央に縦書きで施主銘が多数みられ、 下部に「講中現當」と「二世安楽」の2行の祈願銘が刻まれている。 先の『石仏の旅 東日本編』にはこの塔を以下のようにと記した。

仁王の背後にある堂の前には、享保10年(1725)3月22日の庚申日造立の「奉勧請南無帝釋天王」と刻んだ角柱塔がある。 日蓮宗では帝釈天に対する信仰が厚く、葛飾区柴又の題経寺(日蓮宗)が柴又帝釈天として古くから知られているのも、 日蓮宗と帝釈天との関係を物語る一例である。 柴又帝釈天の御影を基に浮彫り像を刻んだのが、練馬区関町本法寺の明治44年塔や文京区向丘長元寺の年不明塔である。(158頁)

当時、堂前にあった塔が墓地に移されたことがうかがえる。

豊島区にある山吹の里の碑は省略して、源兵衛共同墓地(西早稲田3-24)を訪ね、 表1.-18の笠付の珍しい円柱型をみる。

この塔は上部に日月、中央に「奉供養庚申二世安楽處」の主銘、 下部に4角く枠を作って三猿(像高14センチ)を浮き彫りする。 右側に「願主 牛込長三郎」など4人、左側に「醍醐清兵衛」など4人の施主銘がある。

早稲田通りに出て、通り沿いの西早稲田2-18にある子育地蔵堂には、 木祠の中に表1.-19がある。 上部には日月、中央に剣人6手の青面金剛(像高12センチ)、足下に一鬼、 下部に三猿(像高13センチ)とニ鶏を浮き彫りする。 像の左右に「寛文十二年」「壬子九月十二日」の造立年銘、下部に11人の施主銘がある。

西早稲田から高田馬場に入り、諏訪神社(高田馬場1-12)を訪ねる。 境内には、天和2年の塞神塔がみられるが、中央部を彫り窪めて「塞神三柱」とした改刻塔である。 前面下部の蓮台もわからぬように落とし、わずかに側面に蓮華が残る。 『日本の石仏』第86号の「多摩地方の塞神」で改刻塔であると記した(11頁)。 その塔の前に表1.-20がある。 上部に日月、下部に三猿(像高20センチ)を配し、 中央に主銘「奉待庚申供為二世安楽也」その左右に「干時(異体字)貞享五年」「戊辰九月廾七日」、三猿の下に9人の施主銘がある。

玄国寺(高田馬場1-12-10)の本堂の前には、次の庚申塔3基がある。

表1.-21は、上部に「ア タラーク ウーン」の3種子、中央に「奉待庚申諸願成就攸」の主銘、 その左右に「延宝三乙夘年 敬」「八月四日 白」の年銘、右は死に「久保田藤右衛門」の施主銘、 下部に三猿(像高13センチ)がある。

表1.-22は、合掌6手の青面金剛(像高37センチ)を主尊とし、下部に三猿(像高9センチ)がみられる。 右側面に「奉修庚申御寳前」と施主銘、左側面に「宝永七庚寅天二月二十三日」と施主銘が刻まれている。

表1.-23は塔型が異なるが21と類似した銘文である。 頂部に日月、上部に「ア アク ウーン」の3種子、中央に「奉待庚申諸願成就處」の主銘、 その左右に「寛文五年乙巳 敬」「十二月八日白」の年銘、下部に三猿(像高17センチ)がある。 表1.-21は、表1.-23を模して造立されたものであろう。

今回の最後は、現在、地下鉄にポスターが掲示されているという田植地蔵堂である。 境内にある無縁塔に混じって表1.-24の塔がある。

表1.-24は、合掌6手の青面金剛(像高31センチ)を主尊とする。 八王子などではみられる上方2手に日月を捧げる、万歳型青面金剛である。 銘文はみられず、台石もない。

ここを最後にJR高田馬場駅に向かい、帰途につく。

表1.多摩石仏の会5月例会(平成12年5月21日)にて巡った新宿区の庚申塔
No.年銘塔形寸法備考
1享保2年光背型74×32日月・青面金剛・三猿
2年不明柱状型46×30×28上欠(青面金剛)・三猿
3元禄2年光背型85×52日月・青面金剛・三猿
4延宝8年光背型80×53日月・青面金剛・御弊猿
5天和2年光背型51×29三猿
6貞享3年柱状型68×27×22日月・青面金剛・三猿
7年不明(笠付型)58×25×20日月・青面金剛・一鬼
8延宝8年(笠付型)60×26×19ウーン 庚申講供養寳塔現世安穏後生善處
9延宝5年板碑型81×43上欠・三猿
10延宝4年板碑型137×61日月・ニ鶏・三猿
11享保9年駒型76×31×20日月・青面金剛・一鬼・三猿
12年不明柱状型52×23×15三猿「ウーン」
13元禄2年光背型78×28日月・青面金剛・ニ鶏・三猿
14延宝8年板駒型81×37「カンマン 奉待庚申現世安穏…」
15寛文4年光背型102×47地蔵「奉侍庚申三年一座為逆修佛果菩提」
16寛文7年光背型86×40聖観音「奉侍庚申供養現世伍諸為佛果菩提也」
17享保10年柱状型68×33×21「奉勧請南無帝釋天王」
18延宝3年笠付型84×33×29日月「奉供養庚申二世安楽處」三猿
19寛文12年笠付型108×43×32日月・青面金剛・一鬼・ニ鶏・三猿
20貞享5年光背型91×39日月「奉待庚申供為二世安楽也」三猿
21延宝3年光背型52×29「奉待庚申諸願成就攸」三猿
22宝永7年笠付型74×35×25日月・青面金剛・一鬼・ニ鶏・三猿
23寛文5年笠付型83×28×28「奉待庚申諸願成就處」三猿
24年不明光背型60×28日月・青面金剛

初出

『平成十二年の石佛巡り』(多摩野佛研究会 平成12年刊)所収

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