庚申塔物語

淀橋庚申堂

淀橋庚申堂

平成13年2月3日(土曜日)は節分、新宿区百人町で日本石仏協会の第98回石仏談話室が催される。 それに先立って、かねてから懸案だった淀橋庚申堂を訪ねる。

平成11年12月25日(日曜日)の午前9時30分から放映された日本テレビの30分番組「ぶらり途中下車」では、 都営地下鉄大江戸線を取り上げた。 その番組では、リポーターの阿藤海さんが地下鉄に乗って最初に下車したのが「西新宿五丁目」駅。 ここでは、「いなり寿し 味の仲野」を訪ねている。 この場面で背景に庚申堂が写しだされた。 それが印象に残っていて、庚申堂があるなら庚申塔があるのではないか、と考えた。

ところが放映当時は、新宿五丁目と勘違いしていた。 たまたまインターネットで、リンクして日本テレビのホームページをみる機会があり、 「ぶらり途中下車」の画面で西新宿五丁目であり、 「味の仲野」が10番23号であることがわかった。 今回の石仏談話室への出席を機会に、家を早めにでて淀橋庚申堂を訪ねたわけである。

ヨドバシカメラでFDラベルなどを買い、熊野神社に行って境内の太田南畆の水鉢などをみる。 その後で熊野神社前交差点を渡って左折、方南町方向に進んで牛丼の松屋横の路地をはいる。 道なりに真っ直ぐに行くと、やがて左手に淀橋庚申堂がみえてくる。 その所在地は、西新宿5丁目23番5号である。

庚申堂は木造で、正面上部に「庚申堂」の額(縦が48センチで横が102センチ)があり、 その下に紫地に白で「奉納」と染め抜いた幕がさがっている。 平成12年8月吉日(実際の奉納は9月 後述)に「庚申講」の名で、近くに済む谷本さんが寄贈している。 両端には赤地に白枠つきの墨で「庚申堂」と書かれた提灯(直径が36センチで長さ75センチ)がさげられ、 堂内に庚申塔がみられる。中央にあるのが表1.-1である。

主尊は、合掌6手像(像高56センチ)で鬼の上に立つ。 下部に三猿(像高14センチ)が浮き彫りされ、中央の不言猿が正面を向き、左の不聞猿と右の不見猿が向かい合う。 三猿の上の両端は、蓮華が浮き彫りされるのが珍しい。 通常、板碑型塔では蓮華が下部にみられ、笠付型塔では両側面に刻まれる。 右側面には「淀橋庚申講世話人一同・昭和二十九年九月建之」の銘文が刻まれている。 その左横にある2折した石塔(52×34センチ)は庚申塔かも知れないが、確認できない。

右端には表1.-2がある。 といっても、はっきり猿(像高33センチ)とわかる訳ではない。 これは、今はみる影もなくなった円照寺(北新宿3丁目16番)の無縁墓地にある寛文5年塔の合掌一猿系統の猿である。 武田久吉博士が『路傍の石仏』(第1法規 昭和46年刊)で紹介した成子坂・子育地蔵の背後にあった延宝5年塔や延宝8年塔の着衣載冠の御幣を持つ一猿立像とは異なる。

山中恭古翁の『恭古随筆』(温古書屋 昭和3年刊)には、 円照寺の塔の所在を「柏木村鎧大明神入口の近くにある」(221頁)とし、 「淀橋天神社向ふ地蔵堂」に延宝8年の御弊持ち一猿塔と青面金剛の天和2年塔の2基(223頁)を加えて3基の図を載せている。 武田博士は、延宝8年の御弊持ち一猿塔について、

単立の猿を彫る庚申塔で意匠の変わったのは、東京淀橋成子坂の、子育地蔵の背後あった(写真322)。 ここは区画整理の際に、この付近にあった庚申塔や類似のものを、十余基ほど集めて、 狭い空地に押し込んであったので、窮屈な場所ながら、面白いものがたくさんあったのに、 戦災で壊滅してしまった。(235頁)

そこにあった一つに、着衣載冠の一疋の猿が、両手で、一つの幣束をかついで立つ姿を彫ってあった。 上部左右に日と月とが陰刻され、その下に「庚申」、さらにその下に「延宝八天庚申九月四日」と、 そして足下に施主と刻んで、 「中村小右□門 秋山与右□門 中川源右□門 田中徳兵衛 石川長右□門 根本九兵衛 植村多五郎 山田又兵衛 鶴川源三郎 十友(?)」と一〇人の姓名が彫ってあり、 高さ六一センチ、幅三二センチ。(236頁)

と報告され、延宝8年塔の写真を237頁に載せている。更にもう1基つけ加えて、

同所には、なおこれと同工異曲で、中央に「奉供養庚申」と書き、その下に、幣束を手にした、 着衣載冠の猿が立ち、上部左右には、雲上の日月を彫り、左と右に「延宝五丁巳年十一月十一日」、 下に施主の姓名を彫んだものがあった。高さ九一センチ、幅四〇センチ。(236頁)

の記載がみられる。 この両塔については、清水長輝さんの『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊/名著出版 昭和63年復刻版発行)の149〜50頁に載っている。

このように成子坂の一猿塔2基が古くから知られていたのに対して、 何故か淀橋庚申堂の庚申塔が知られていなかった。 というよりは、無視されていたといったほうがよいだろう。 その証拠にこれまで私の知る限りでは、この淀橋庚申堂の庚申塔について書かれたものをみていない。

この堂に掲げられている「庚申待の由来」の木札には、「当所の庚申塔は昭和六年の調査では三基 の塔には寛文四年(一六六四年)などの文字が刻まれてありました」と記されている。誰が調査した ものか、またその内容も不明であるので、現在みられる一猿塔が寛文4年であったかどうかは一切わ からない。円照寺の塔が寛文5年であるから、寛文4年塔の可能性も捨てきれない。

現在もこの堂に信仰する方があるとみえて、中央の庚申塔の前には、 台の上に水をいれた3個のコップが供えられ、その両脇に榊がおかれている。 堂の右手には、総高118センチの燈籠があって竿石に「昭和五十二年/志主 海老原雪再」とある。 その脇には、正面に「奉納」、裏面に「庚申講世話人一同 昭和三十五年一月十五日」名の手洗鉢がおかれいる。 また、赤地に「猿田彦大神 庚申講」と白抜きのノボリ(幅が33センチで長さが88センチ)がみられる。 堂の右側の道路に面して地蔵石佛が4体おかれている。

この堂内の塔を調べていると、お参りにきた方がある。 紫地の幕を奉納された谷本さんのおばあちゃん(大正6年生まれ)である。 お参りが終わってから、いろいろとお話をきく。 昔は堂の隣にある家を貸して、その家賃で堂の維持費としていた。 谷本家では4年毎に庚申堂に幕を奉納しているが、今回は1年早く9月に奉納した。 幕に9月というのは「苦」に通じて嫌なので、末広がりの「八月」にしたという。 お堂の管理は、前のパン屋さんのエビハラベーカリーである。 この辺りは商店街で、昔は谷本さんでは洋服を売っていたそうである。

今回はカメラを持たずにきたので、再訪の節に庚申堂や庚申塔を写したい。

表1.淀橋庚申堂
No.年銘塔形寸法備考
1昭和29年駒型96×46×25日月・青面金剛・一鬼・三猿・蓮華
2年不明光背型59×45一猿

初出

『庚申』112号(庚申懇話会 平成13年刊)所収

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