薬師如来は、梵名バイサジャグルヴィツ−ルヤタタ−ガタ、「薬師瑠璃光如来」と訳される。略し て「薬師」、「医王尊」の別称がある。来世の世界である西方浄土の教主・阿弥陀如来に対して、東 方浄土の浄瑠璃世界の教主として衆生の現世利益を司る。十二の大願をたて、衆生の物心両面の苦悩 を除く仏として信仰されてきた。その形像は、右手を施無畏印、左手に薬壺を執るのが一般的である が、石仏では両手で薬壺を捧持するものが多く見られる。
庚申縁起の中には、いろいろな仏・菩薩が礼拝本尊として登場する。薬師如来もその一つで、大分 ・宇佐八幡宮の「庚申因縁記」や天理図書館蔵の「庚申之本地」などに、「戌亥ノ時ニハ文殊薬師各 々過去ノ七仏ヲ可念」とか、「戌亥の時には文殊菩薩・薬師如来・過去七仏お念じ奉るべし」と記さ れている。あるいは、青森・柳沢氏蔵の「庚申縁起」などには、「辰巳の時には薬師如来」とあり、 奈良・金輪院の「庚申待祭祀縁起」には、「戌亥ノ時ニ至テ、本尊ノ呪、不動・薬師・文殊ノ呪い、 七仏ノ宝号ヲ唱フベシ」とある。縁起の中には、例えば叡山文庫蔵の「庚申雑々」のように、「戌亥 ノ時ハ文殊ヲ念ジ」と、薬師が省かれる場合がある。しかし、同様な記述であっても、清水長明氏蔵 の「庚申待之縁起」には、虎卯の時に「薬師真言 チンコロコロセンダリマトウギソワカ」を百回唱 えるように「庚申之夜勤之目次」に示されている(窪徳忠博士『庚申信仰の研究』)。
以上見たように、庚申縁起の礼拝本尊として登場する薬師如来が庚申塔の本尊となるのは、けして 無縁ではない。薬師を主尊とした庚申塔で最も広く知られているのは、東京都板橋区志村1丁目の延 命寺境内にある正保4年塔である。頭上に輪後光を持ち、両手で薬壺を捧げる座像を光背型の中央に 浮彫りする。像の右には、「正保四丁亥暦 庚申待」左には「二月大吉日 結衆敬白」と銘文が刻ま れている。清水長輝氏は「この石塔には全面的に彫りなおした形跡がみられ、銘文も新しくきんだも ので、資料的価値がほとんどなくなってしまったのは、いかにも残念に思う」(『庚申塔の研究』) と指摘している。
板橋区にはもう1基、同書にふれられている塔がある。赤塚5丁目の上赤塚観音堂境内に見られる 光背型塔だ。志村のと異なり、立像で右手を下げて薬壺状のものを持ち、左手に棒状のものを執る。 像の右に「奉造立薬師如来像供養庚申為二世安楽也」とあるから、この像は、薬師として造られたも のであろう。『佛像図彙』に示された「七仏薬師」の中には、右手に蓮華、左手に薬壺を持つ「金色 宝光妙行成就王」と、右手に宝剣、左手に薬壺を執る「法海雷音如来」が描かれ、持物を執る手が逆 であるが、この立像に近い尊容である。棒状のものが明らかならば判断できるが、定かではないので いずれかであろう。なお、像の左には「干時(異体字を使用)延宝四丙辰天二月七日」とあり、像の 下部左右に12名の施主銘を記す。
東京都には、薬師主尊の塔がさらに1基見られる。東大和市清水の清水神社境内にある木祠には、 薬壺を膝上に捧持する丸彫りの座像が安置されている。像と1石造りの台石正面には、「庚申供養 宅部江 同行十七人」とあり、側面に「宝永七庚寅年」、「二月吉日」と刻まれている。
埼玉県蕨市錦町6丁目の堂山墓地には、上部にバイ種子入りの天蓋を薄肉彫りし、中央に薬壺を捧 持する立像を半肉彫りした光背型塔がある。像の右に「奉起立庚申為逆修菩提 信心」、左に「寛文 十戌年十月廿日 施主」、下部中央に「敬白」、その左右に施主銘を2段4行ずつ、「東光寺」と「 惣右衛門」など15人の名前を刻む。
志木市から昨56年に刊行された『志木市史 石造遺物』によると、上宗岡4丁目の浅間神社境内 には、薬壺を両手で捧持する立像を浮彫りした光背型塔がある。銘文は、像の右上方に「圓成諸願三 彭伏」と「即減七難七福生」の2行、その下に「寛文十一年」、左上方に「現世當來本安穏」と「六 塵不悪古今清」の2行、その下に「辛亥十一月十五日 施主十人」とある。なお、銘文中の「即減」 は 「即滅」のように思うが、未見で同書の写真では確認できない。
埼玉県にはいま1基、岩槻市馬込の満蔵寺に薬師を主尊とした庚申塔がある、と中山正義さんから 聞いている。後日同氏から詳細な報告がなされると思う。
一昨年に千葉県教育委員会から発行された『千葉県石造文化財調査報告書』には、薬師主尊の庚申 塔として、船橋市西船5丁目の辻にある笠付型途を記載している。寛文10年9月吉日の造立で、「 奉造立薬師如来庚申待結衆念願成就二世安楽攸」の銘文が刻まれているという。立像であるのか、座 像なのか、また持物や印相についてふれられておらず、不明である。
以上見た薬師如来主尊の庚申塔の造立年代は、不明の1基を除いて、正保1基、寛文3基、延宝1 基、宝永1基である。清水長輝氏のいわれる第2期の混乱時代(前掲書)に、その大半が造像されて いる。赤塚の立像を除いて、像容の明らかな4基は、いずれも両手で薬壺を捧持している。立像3基 、座像2基であり、浮彫り像4基に対して丸彫り像1基という内容である。これまで三猿伴う塔が発 見されていないのも、注目すべきことだろう[註1]。それだけに、薬師主尊の庚申塔は見落とされ る可能性が強いが、石仏の場合には、薬師の造像自体が少ないから、今後、発見されたとしても、そ う多い基数にはならないだろう。
昭和57年2月17日 記
『野仏』第14集(多摩石仏の会 昭和57年刊)所収