庚申塔物語

東京都の弥陀刻像庚申塔

東京都の弥陀刻像庚申塔

庚申塔を主題としたある論考を読んでいたら「弥陀刻像塔は江戸、武蔵に少なく、神奈川地方に多 くみられ」云々、という箇所に出会った。現在の神奈川県は、相模国だけの印象を与えるが、武蔵国 の一部も加わっているのである。従って「神奈川地方」といっても武蔵が含まれているのだから、お そらくその論考の筆者がいう「江戸、武蔵」は、東京都を指したものと思えるし、さらに埼玉県を加 えた範囲を想定していったのかもしれない。いずれにしても江戸期と現在を混同しており、不適切な 地域区分であり、誤解を招きやすい。

伊東重信氏が『日本の石仏』第3号に発表された「神奈川県にみられる山王系の庚申塔」によると 手持ち資料による神奈川県内の弥陀刻像庚申塔(以下弥陀庚申塔と略称する)は69基である。分布 図(26頁)によって武蔵分の基数を調べると20基ある。つまり相模分は、その差49基になる。 東京と埼玉に30基以上の弥陀庚申塔があるとすれば、神奈川の20基(武蔵分)を加えて「江戸・ 武蔵には少なく」とはいえないことになる。伊東氏の分布図からみると、相模分には少なくとも10 基の記載洩れがみられるから、40基以上なくてはならないが。

たまたま私は、東京との観音刻像庚申塔を調べていたところでもあったので、弥陀主尊のものも併 行して調べてみた。本来ならば、埼玉県まで範囲を拡げなくては武蔵国にならないが、東京都だけを 調査しても、おおよその見当はつくと思われる。

試みに手元にある埼玉の調査資料の何冊か当たったところ、寛文期の弥陀主尊のものがみられた。 『八潮の金石資料』(昭和51年刊)には寛文元年塔、『志木市の文化財 第二集』(昭和47年刊)に は寛文12年塔、『三郷市内庚申塔調査報告』(刊年不明)には寛文13年塔が報告されている。こ うした少ない例からも、埼玉県内に弥陀庚申塔が分布することは間違いない。

さて、文献資料も含めて手元にある東京都の調査資料から弥陀刻像の庚申塔を抜き出してみると

No.年銘主尊塔形所在地
1元和9年来迎三尊板碑型足立区花畑町 正覚院
2正保4年来迎三尊板碑型荒川区町屋2-8 原稲荷
3万治3年来迎一尊光背型江戸川区桑川町 称専寺
4寛文2年定印座像光背型大田区大森北3-5 密蔵院
5寛文3年来迎一尊光背型中野区上高田5-21 東光寺
6寛文3年来迎一尊光背型中野区新井5-3 梅照院
7寛文4年定印座像笠付型足立区千住仲町 源長寺
8寛文4年来迎一尊光背型墨田区墨田5-31 多聞寺
9寛文6年来迎一尊光背型文京区関口2-3 大泉寺
10寛文6年来迎一尊光背型葛飾区東新小岩4-8 正福寺
11寛文9年来迎一尊光背型葛飾区四ツ木3-4 善福寺
12寛文10年来迎一尊光背型板橋区赤塚4-36 青蓮寺
13寛文12年来迎一尊光背型大田区新蒲田2-3 金剛院
14寛文12年来迎一尊光背型大田区田園調布7-30 照善寺
15寛文12年来迎一尊光背型新宿区西大久保2 全龍寺
16寛文12年来迎一尊光背型墨田区墨田5-42 円徳寺
17寛文13年来迎一尊光背型葛飾区四ツ木1-25 西光寺
18寛文13年来迎一尊笠付型品川区大井4-22 西光寺
19延宝4年来迎一尊光背型調布市深大寺町野ケ谷 諏訪神社
20延宝5年定印一尊笠付型町田市小山町三ツ目 日枝神社
21延宝8年来迎一尊光背型北区滝野川2 正受院
22延宝8年来迎一尊光背型板橋区赤塚5-26 観音堂
23延宝8年定印座像笠付型墨田区東向島3-8 法泉寺
24延宝8年来迎一尊光背型大田区多摩川1-5 遍照院
25天和2年来迎一尊光背型江戸川区東小岩2-24 善養寺
26天和2年来迎一尊光背型大田区新蒲田2-3 金剛院
27天和3年来迎一尊笠付型葛飾区水元猿町 円蔵寺
28貞享1年定印一尊笠付型八王子市山田町 山田会館
29元禄2年来迎一尊光背型足立区本木西町17 吉祥院
30元禄2年合掌一尊光背型町田市成瀬 吹上路傍
31元禄4年来迎一尊光背型板橋区大山西町
32元禄7年定印一尊笠付型八王子市万町 観音寺
33元禄9年合掌一尊笠付型町田市木曽町 観音堂
34宝永2年定印一尊笠付型八王子市寺田 榛名山神社裏山
35宝永2年合掌一尊笠付型八王子市長房町中郷
36享保4年定印一尊笠付型町田市上小山田町平台
37元文5年合掌一尊柱状型町田市小山町中村
38年不明来迎一尊光背型足立区千住2-62 金蔵寺
39年不明合掌一尊柱状型八王子市宇津貫町 福昌寺
40年不明合掌一尊笠付型八王子市中山
41年不明合掌一尊笠付型八王子市上川町 三光院
42年不明定印一尊光背型町田市金森 西田
43年不明定印一尊笠付型日野市日野 普門寺
宝永X年来迎三尊光背型足立区西新井1-15 総持寺

相模の59基と比較して少ないとはいえない。また地域的に一部が重複するけれども、神奈川と武蔵 の比較も、埼玉の塔数が加わると必ずしも「武蔵が少ない」とはいい切れないだろう。

単純に弥陀庚申塔の塔数算出が動機で、資料の中から選び出したが、前記のように造立年代順に一 覧してみると、2つの大きな流れに気付いた。1つは区部の来迎弥陀を主尊とする流れ、他は多摩地 方──というよりは南多摩というほうが適切であるが──合掌・定印弥陀を主尊とする流れである。 前者が寛文期を主体とするのに対して、後者は延宝以降に造立されている。後者については、隣接す る相州の津久井・高座の両郡との交流が考えられるし、同じような傾向が両郡にみられる。区部と南 多摩における弥陀庚申塔の造立年代の差は、庚申塔造立の風習や青面金剛の普及年代の違いとも関係 があるだろうし、石造文化圈や指導者の系統が異なることも関連するだろう。

多摩地方の弥陀庚申塔の中で注目されるのは、八王子市山田町の貞享元年塔正面上部に「山王大権 現」と刻み、その下に定印弥陀像を半肉彫りした点である。同市南浅川町には定印座像を主尊とした 寛永5年の懸仏があり、山王社の御正体である。山王と庚申とが弥陀を共通項として結びついている ことが、この二例からうかがえる。

神奈川県になるが、相模湖町寸沢嵐に宮崎家墓地にある延宝5年笠付型塔は、正面に日月・合掌弥 陀・三猿の刻像、側面に「奉造立山王為庚申供養二世安稔之也」の銘文がある。ここでも庚申と山王 は、合掌弥陀を仲介として結びついている。地理的なつらなりからいっても、どうも南多摩にみられ る定印や合掌弥陀は、山王と結びつくように思われてならない。

話が山王の問題に入っていくと、長くもなるし、本題からも外れるので、これ以上のことは別の機 会に譲りたい。さて表を見ていただこう。

弥陀庚申塔の造立年代
造立年代 東京 神奈川
来迎 定印 合掌 合計 来迎 定印 合掌 合計
合計27974331282079
元和1〜寛永71

1


0
寛永8〜寛永17


0


0
寛永18〜慶安31

1


0
慶安4〜万治31

1


0
寛文1〜寛文1072
97
18
寛文11〜延宝8102
121541231
天和1〜元禄35
1638212
元禄4〜元禄13111346414
元禄14〜宝永7
112
3
3
正徳1〜享保5
1
12518
享保6〜享保15


0
1
1
享保16〜元文5

11


0
年不明1236* 11
2

この表は、弥陀庚申塔の造立年代別の塔数を示した。神奈川県分については、伊東氏が『日本の石 仏』第3号25頁に発表されたものに、記載洩れの10基を加えて補正した。

神奈川と東京を対比してみると、いろいろな傾向がつかめる。表からもすぐわかるように、弥陀庚 申塔の出現は東京が早い。年表に示したように、東京の初期2基は、弥陀三尊来迎像である。万治以 降、来迎・定印・合掌像のいずれも一尊像となる。

定印像は、来迎像と同様に東京が先行する。区部にある3基が座像であるのに対して、南多摩のも のが立像であるという特長がみられる。南多摩の傾向は、隣接する津久井・高座地方とも造立年代や 立像である点など共通している。

合掌像は、前2者とは異なり、神奈川が優先する。しかも神奈川のピークを過ぎてから南多摩に造 立されている点は、見逃せない点である。定印立像と共に相模との関連が見出される。

塔数の問題が、東京都全域を見渡すマクロ的な視野に拡がったために、今まで見えなかった部分が 弥陀主尊の庚申塔を抜き出して年表にまとめる作業を通して見えてきた。まったく、思わぬ収穫であ る。今回のこの成果は、偶然から得られたもので、初めから意図したものではなかった。もし「武蔵 は少ない」という箇所に疑問を持たなかったら、東京の弥陀庚申塔の傾向をつかめなかったろう。

この度の資料整理を深く反省してみると、手元にある文献資料を含めた調査資料を充分に活用して いなかった点に到着する。それは、なにも私だけの問題ではない。調査しただけで、そのままになっ ている資料、すでに発表したことのある資料といえども、角度や視野を替え、範囲を拡げて組み合わ せれば、いろいろな収穫があるはずだ。調査者各自が宝の山を持ちながら、発掘されない状態ではな いだろうか。しかも宝の山のあることに気付いてはいない。

弥陀庚申塔を例にとっても、埼玉は無論のことだが、東京や神奈川にも、まだ調査洩れはあるだろ う。そうしたものを見付け、3都県あるいは相武を対照比較することもできる。さらに範囲を関東地 方に拡げるとどうなるだろうか。先にふれた伊東氏の論考のように、山王と関連させる角度もある。 六字名号や弥陀主尊の種子を刻む塔の場合はどうなのか、青面金剛の普及と弥陀庚申塔との相関関係 はどうか、などいくらでも問題は発展させられる。

ともあれ、現在、宝の山ともいうべき手元の資料を発掘、活用することを心掛ければ、なんらかの 思いがけない成果が得られるはずである。一定の範囲を調査して発表すれば終わりというのではなく 何度でも調査資料を利用することである。再三の活用によってさらに新しい方向が見出されるであろ う。自分1人の資料で解決がつかないならば、呼びかけて各自の調査資料を持ち寄ってもよいではな いか。庚申塔については、まだまだ問題点が多い。各自が手持ち資料をもう一度見直していただきた い。

昭和53年11月10日 記

参考文献

著者名著書名発行年発行元
清水長輝『庚申塔の研究』昭和34年刊大日洞
平野榮次『大田区の民間信仰 庚申信仰編』昭和44年刊大田区教育委員会
南博・平野榮次『品川の民俗と文化』昭和45年刊品川区
滝善成「本区庚申関係石造物の調査」
『足立区文化財調査報告書』第六・七集所収
昭和47・48年刊足立区教育委員会
須藤亮作『東京都中野区の石仏』昭和50年刊中野区教育委員会
入本英太郎他『葛飾区文化財総合調査報告書』昭和50年刊葛飾区教育委員会
板橋区教育委員会事務局社会教育課『庚申塔』昭和52年刊板橋区教育委員会

初出

『庚申』第78号(庚申懇話会 昭和54年刊)所収

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