青面金剛以外にも、庚申塔の主尊としていろいろな刻像がみられることは、よく知られている。東 京都の場合、釈迦・薬師・阿弥陀・大日・聖観音・馬頭観音・如意輪観音・卅四所観音・地蔵・不動 ・倶利迦羅不動・閻魔・帝釈天、あるいは猿などさまざまなものがある。ところが、勢至菩薩が主尊 というのは、最近まで一般には知られていなかった。庚申塔の研究を進める上で欠くことのできない 清水長輝氏の『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊)にも載っていないし、庚申懇話会発行の『庚 申』創刊号〜第75号(昭和34〜52年刊)にも全くふれられていないのである。
勢至主尊の庚申塔の存在を私が知ったのは、埼玉県三郷市文化財調査委員会編の『三郷市内庚申塔 調査報告』(昭和50年刊か)の216頁に記載された同市高須・宝蓮寺墓地にある元禄10年(1697) 塔の報告によってである。この報告書を入手した昭和51年1月のことだった。その後、同県 八潮市教育委員会編・発行の『八潮の金石資料』(昭和51年刊)にも、同市八条高木の清勝院境内に ある寛文2年(1662)塔が76頁に紹介されており、勢至主尊の庚申塔が埼玉県下に2基あるこ とを知った。
勢至庚申塔の存在を知ったきっかけは、前項で述べた通りであるが、それ以前に私は勢至を主尊と した庚申塔を見ていた。それは、昭和42年7月27日に調査した東京都町田市小山町三ツ目の日枝 神社境内にある天和3年(1683)塔である。そこには、延宝5年(1677)造立の定印弥陀を 主尊とする庚申塔がみられる。小山町は、南にある境川をへだてて隣が神奈川県という所に位置して いる。本誌(『日本の石仏』)第3号に載った伊東重信氏の「神奈川県にみられる山王系の庚申塔」 からもうかがえるように、山王庚申塔の分布する相州の影響を受けやすい場所である。勢至庚申塔が 建っている所が日枝神社であったためかもしれないが、私は、相州との関連を考えて、山王の像とし て合掌した立像を刻んだのでないか、などと推測した。無論、当時は勢至であろうなどとは考えたこ ともなく、刻像の尊名不明のままでおいた。
次に勢至庚申塔と出会ったのは、昭和49年2月22日のこと、東京都青梅市吹上の馬頭山であっ た。吹上で窯跡の発掘があり、その伝承の聞き取り調査を前日に行った。たまたま訪れた所が本橋さ んの家で、肝心な吹上窯についての伝承調査は失敗したが、話題が発展して以前の家業であった馬喰 の話から馬頭観音に及び、持ち山に元禄の馬頭観音石像があるのを聞き込んだ。すでに青梅市内の石 仏調査も終わり、報告書も提出した後であったが、元禄の馬頭となると、市内最古の可能性がある。 その日は遅かったので、翌日、教えられた通りに馬頭山に行ってみた。そこには前日の話とは違い、 自然石に「馬頭観世音」と刻まれた昭和の文字塔がみられたものの、隣にあった刻像塔は、馬頭では なくて庚申塔であった。正面中央には合掌の菩薩立像を刻み、下部には三猿の陽刻がある。
当時、報告書は市教育委員会へ提出してあり、印刷にかかるところで用紙不足から印刷費の高騰に あい、当初予算措置した額では足りず、補正予算の決定するまで印刷がストップしていた。本文の訂 正はできないけれども、多少の追録は可能だというので、もう1基の調査洩れの塔と共に「市内の庚 申塔」(『青梅市の石仏』所収 昭和49年刊)の文末に追録した。この時、主尊の判定に悩んだが、 備考に「合掌形」と記して観音ということで記載した。
その頃、まだ三郷や八潮の勢至庚申塔の存在を知らなかったし、勢至といえば月待塔、特に廾三夜 塔の主尊としての理解しかなかった。市の報告書に書いた「西多摩地方の月待塔」(前掲書所収)の 中でも勢至にふれたし、それまでにも勢至の刻像を見てきたわけだから、吹上の合掌像を勢至と判断 してもよかったわけである。恐らく、三猿がなくて「月待供養」なり「廾三夜待供養」のような月待 に関する銘文が刻まれていたならば、観音とまちがえるようなことはなかったはずである。勢至は月 待と関連があるだけ、という先入観が強かったためである。
一方、観音については、聖観音・如意輪観音・馬頭観音が庚申塔の主尊として登場するのを知って いた。それらの塔をすでに都内や近県で見ていたし、「市内の庚申塔」にも文京区根津・根津神社に ある聖観音主尊の塔の写真を載せておいた。さらに卅三観音の中に合掌姿の合掌観音があるのを承知 していた。無意識のうちに、勢至は月待、観音は庚申待という先入観が強く働いたために、吹上の像 を観音としたわけである。
三郷や八潮の実例を知れば、コロンブスの卵ではないが、変な先入観など吹き飛んでしまう。勢至 は、中世にも単独ではないが、観音と共に弥陀三尊形式で庚申板碑に登場している。たしかに卅三観 音の中には、合掌の姿をした「合掌観音」がみられる。けれども、現在わかっている範囲でみると、 卅三観音が石像として現れる時期は、江戸時代後期以降のことで、卅三観音の中でも単独に造られる 魚籃観音も江戸中期以前のものは見当たらない。こうした傾向から考えても、中期以前に合掌観音が 単独で造像されたとは思えない。
例えば東京都葛飾区東金町の光増寺境内には、2手合掌菩薩形立像の上部に「サク」の種子が刻ま れた寛文13年(1673)塔がある。この像は、種子からみて来迎相の勢至とみるべきであろう。 これは「念佛講之結衆」の銘のある光背型塔である。
特異な事例に属するが、市川市本行徳の徳願寺墓地には、一見、如意輪観音風な輪王座の石像の墓 石がある。合掌手を突き出した像で、これも像の上に「サク」の種子が刻まれている。これも勢至で あることを示している。これと同系統のものが同市湊の善照寺墓地にもみられ、背面に寛文の年号を 刻んでいる。こうした事例を見ても、勢至が念佛供養なり墓石として寛文の頃に造像されていたとす るならば、合掌観音の石像の出現の時期と併せて、菩薩形の2手合掌像を合掌観音とみるよりも、来 迎相の勢至菩薩とみるのがより適切であろう。
現在までわかった勢至主尊の庚申塔は、次の5基である。いずれも合掌した来迎相の立像を刻む。 以下、造立年代に従って紹介していこう。
最も古いのは、先にふれた八潮市八条・高木の清勝院境内にある寛文2年(1662)塔である。 上部に勢至を示す「サク」の種子。立像の左(向かって右側、以下同じ)には「乃至法界平等利益」 「2世安楽処願成就攸」の2行、右には「奉造立勢至像一躯庚申待施主十一人」「寛文二壬刀天十月 吉日」の2行、像の下部左右には「敬」と「白」の銘文がある。塔高132センチ、幅58センチの 光背型塔である。
次は、三郷市彦倉の虚空蔵堂門前にある延宝8年(1680)塔である。これも光背型塔で、高さ 113センチ、幅50センチだ。像の左に「庚申供養結衆」、右に「延宝八庚申天九月吉日」の年銘 下部に「奥内匠」など7名の施主銘が刻まれている。
なお、この塔については、一言ふれておきたい。『三郷市内庚申塔調査報告』や柴田寿彦氏(本誌 第5号49頁参照)は、後述の宝連寺墓地の元禄10年像を勢至としながら、同じ2手合掌のこの像 を観音としている。合掌の菩薩形の像の一方を観音とし、他方を勢至に区別するからには、そこに明 確な区分の基準があるからと思われる。しかし、私にはいろいろな点を勘案しても、勢至を示す種子 と銘文が一方になく、他方にはあるという以外に、両者を判別することはできず、両者共に勢至と考 える。
3番目のは、町田市小山町三ツ目の日枝神社境内にある天和3年(1683)塔である。笠付型塔 で、塔身の高さは69センチ、幅は29センチ、奥行が23センチある。左側面には「天和三癸亥年 三月吉日」「願主敬白 清左門 次郎兵衛」の銘に不聞猿、正面に勢至立像、下部に不見猿があった と思われるが現在は欠けてない。左下に「六左右門 四郎左門」の2名、右下にも2名位の名前が刻 まれていたかもしれないが、破損のため不明。右側には「奉納庚申供養請願成就所」と「文右門 五 郎兵衛」の銘、下部には不言猿の陽刻がみられる。
4番目は三郷市高須の宝蓮寺墓地にある元禄10年(1697)の板駒型塔、高さ113センチ、 幅50センチである。上部に「バク」の種子、像の左に「奉庚申供養勢至菩薩像二世安楽」、右に「 元禄十丁丑十一月吉日 施主十八人」、像の下部の左右に「結衆 伝兵衛」など18名の施主が刻ま れている。下部には中央の不聞猿が正面を向き、右の不見猿と左の不言猿が内側を向いた横姿の陽刻 である。
5番目は、青梅市吹上の本橋家地内にある元禄11年(1698)塔で、高さ61センチ、幅31 センチ。光背型塔に近い自然石というべきであろうか。像の左に「元禄十一□□九月 施主」、右に 「吹上村 本橋三兵衛」の銘。下部に正面向きの三猿が刻まれている。馬頭山から最近、現在地に移 された。
現在までのところ、庚申塔に現れる勢至像は、立像で合掌した来迎相のものばかりである。勢至に は、市川の墓石のように、来迎相でも座像がある。廾三夜塔においては、例えば、東京都八王子市宇 津貫町にある宝暦7年(1757)の丸彫り像のように、浄土変相図の蓮華をとる2手座像もある。 これには立像もみられるから、各地の調査が進むにつれて、来迎相立像以外のものも発見される可能 性があるだろう。すでに調査された庚申塔の中に、私が誤りを犯したように、観音とされたものや、 尊名不明のままで処理されたものが、実は勢至主尊であったというものも出てくるだろう。
狭い地域の調査では、判断のつかないことでも、他の地域の調査資料の中に案外、問題解決のヒン トが埋もれているものである。おそらく、私の場合でも、多摩地方の資料だけでは、とうてい勢至と 判断できなかったろう。たまたま入手した埼玉の調査資料から明確な勢至主尊の庚申塔を知り、誤り に気がついたわけである。
三郷の報告書を契機として、勢至に石仏を特に注意してみると、今まで気付かなかったことも見え てきた。市川の輪王座勢至や葛飾の勢至念佛塔の発見も、そうした成果の一例である。石仏写真集な どをみていると、勢至とすべき合掌二手像が観音とされる例がみられる。勢至は、独尊として観音ほ どに進行が一般化されなかったためであろう。その割りには、墓石に勢至が刻まれている例があるの に驚く。今回の勢至庚申塔の場合、つくづく誤った先入観を持つと物事が正しく見えなくなることを 痛感した。なお、勢至を主尊とした庚申塔をご存知の方は、ご報告いただければ幸いである。
『日本の石仏』第6号(日本石仏協会 昭和53年刊)所収