庚申塔物語

『異型の深夜』からの発想 ─地蔵庚申をめぐって─

『異型の深夜』からの発想 ─地蔵庚申をめぐって─

昭和58年4月下旬、森村誠一氏の長編小説『異型の深夜』がカドカワ・ノベルズの1冊に加わっ た。早くから単行本化されないか、と私が待っていた本だった。というのは昨年(昭和57年)頃で あったろうか、春日部の中山正義さんから『週刊サンケイ』に連載されている小説に庚申塔が出てく る、と教えていただいた。その連載小説というのが、前記の『異型の深夜』だ。気にかかるものだか ら、しばらくして書店に頼んで、中山さんから報せを受けた3月11日号を取り寄せてもらった。

森村氏は流行作家だから、近いうちに単行本にまとまるだろうと考えて、おそらく庚申塔にふれた 箇所があるだろう前後の号を手に入れようとは思わなかったのである。予想した通り、単行本を見る と、前後の号にも庚申塔にふれた所があった。その後も連載が続いていたので、書店で気がつくと『 週刊サンケイ』には注意を払っていたのである。

今回、角川書店から発刊された『異型の深夜』は、週刊誌連載のすべてではなく、第5章までを収 録している。『週刊サンケイ』には、第6章以降も掲載されており、後の章では秩父の庚申塔にふれ た箇所がみられる。すなわち、9月9日号の「八本様」と呼ばれる8手青面金剛の登場である。この 8手像が延宝6年に造立された点が、少々気になるところであるが、ここでは、角川本の第4章に書 かれている地蔵庚申に的を絞ることにする。

小説の進展については直接、本で読んでいただくとして、まず地蔵庚申の範囲の点から述べてみよ う。第4章の「棄神犯」の最初に、「舟型の石板に素朴な地蔵菩薩を刻んだものである。銘文らしき ものは彫られていない」(165頁上段)とある。銘文のない点は、162頁の「舟型の石板に彫ら れた素朴な石像、どちらにも銘文はない」や174頁の「名前や碑文が彫られているわけでもない」 と、重ねて記されている。

この銘文のまったくない地蔵庚申が「舟型の石に地蔵菩薩像を彫っている形態から判断すると、初 期の庚申供養塔の様式を示している」(165頁下段)と、突然に庚申塔とされてしまう。この点に ついては、中山さんも指摘されており、庚申塔の範囲を考えるポイントの1つでもある。もっとも、 161頁の上段には、

「昔この地域は沼部村と呼ばれて、農民は庚申を信仰したそうです。すぐ近くの密蔵院という 庚申堂が『沼部の庚申様』と称ばれて、有名なんだそうです。このように舟型の石に地蔵菩薩 を浮き彫りにしたのは、初期の庚申供養塔の様式を示していると聞きました。そんな土地柄か ら、前の持ち主が庭に自前の庚申様を祀ったのではありませんか」(傍線筆者)

と、すでに伏線を張ってはいるが。

地蔵を主尊とする庚申塔というからには、庚申供養を示す銘文か、三猿が刻まれていなければなら ない。銘文もなく、単に地蔵を浮彫りした石仏では、庚申塔としての条件を欠くことになる。小説の 進展の上で、沼部(東京都大田区田園調布南)がからむので、単なる地蔵石仏と扱わず、庚申塔とし て話をふくらませている。

他方で銘文や三猿像などの目立つ特徴があっては困るので、没個性の無銘の地蔵庚申としたのは、 理解できないわけではない。しかし、条件に欠けた銘文のない地蔵石仏を庚申塔に仕上げるのは、ど だい無理がある。作者の石仏に対するというより、庚申塔に関する知識のなさを物語るもので、身勝 手なご都合主義だといえる。

作中では、庚申塔とされた地蔵石仏が捨てられ、それを見付けるのが竹下和彦である。彼については、

竹下和彦は、東京のある私大で国文学の講義をしている。日本文学の古典と信仰の関係を調 べているうちに地域の素朴な信仰の対象となっている辻の地蔵尊や庚申塔などに関心を抱くよ うになった。

こうして講義のない日を利用して主に関東一円の野仏を訪ね歩き、その調査研究を集録する ようになったのである。

と166頁に記されている。竹下は、すでに第3章にも登場し、杉並の閑静な所に豪邸をかまえた、 土地代々の素封家で33歳である(90頁下段から次頁上段)と紹介されている。専門外とはいえ、 関東一円の石仏調査を進めている割りには、庚申塔に不案内なお粗末な大学講師を作中の人物として いる。もっとも、一般の読者が地蔵庚申にそれほど興味を示すとは思えないし、庚申塔についても深 く追求しないだろう。

作中の地蔵石仏の所在地の関係から、小説では、大田区の庚申塔にふれた箇所がある。169頁上 段に載っている「大田区は江戸時代庚申信仰が盛んで区内に庚申待の人々が建てた九〇基の庚申塔が ある」だ。90基の数は、平野栄次さんが書かれた『大田区の民間信仰(庚申信仰編)』(昭和48年 刊)に記載された基数と一致する。すなわち、同書に集録された庚申塔は98基で、その中で明治以 降の塔2基と造立年代の不明な塔6基を差引くと90基となる。なお、平野さんは、前書に記載洩れ の塔を含めた101基(明治以降の塔3基、年不明塔6基)を「大田区の石塔と石仏(4)」(『史 記』12号 昭和54年刊)に発表されている。基数や密蔵院の青面金剛木像の高さの記述から考えて みると、森村氏は『大田区の民間信仰』を参考にしたと思われる。

169頁下段では、沼部の庚申堂木像にふれた後で、「ここの庚申供養塔は大田区内最古のもので 当時の沼部村民有志八名の建立によるものである。これらの形態が捨てられた石仏と同様の舟型石に 地蔵菩薩を浮き彫りにしたものである」と述べ、密蔵院の地蔵庚申を引き合いにして、無銘の地蔵石 仏を庚申塔であることを正当化している。しかし、密蔵院にある寛文元年の地蔵庚申には、「新奉造 立供養意趣者庚申待壹塔八人現當二世安楽攸」と刻まれ、けっして無銘ではない。この点を忘れては ならない。蛇足になるが、寺には前記の地蔵庚申の他にも、寛文3年聖観音・延宝2年一猿文字塔・ 昭和庚申年青面金剛像の庚申塔が見られるけれども、それらについては小説ではふれていない。

『異型の深夜』で特に発想のヒントになるのは、地蔵庚申の分布である。157頁下段の、

庚申の象徴は、青面金剛像であるが、このように地蔵菩薩を彫るのは初期の形態である。これまで の野仏の調査によってこのような庚申の初期形像がよく残っているのは、多摩川縁の大田区、世田谷 区、調布市、また川崎市の高津区、多摩区の一隅である。

の箇所である。調布市内の地蔵庚申で思い浮かぶのは、深大寺町・池上院(現・深大寺元町2丁目1 2番)の光背型塔である。それと同町野ヶ谷・諏訪神社(現・深大寺東町8丁目1番)にある地蔵か 阿弥陀か判断に苦しむ塔だ。三鷹の福井前通さんは、野ケ谷の塔を阿弥陀主尊と断定している。その 塔の隣には、来迎弥陀を主尊とした庚申塔がある。調布市役所発行の『調布百年史』(昭和43年刊) では、前記の諏訪神社の寛文6年塔と池上院の延宝8年塔、加えて入間(現・東つつじが丘3丁目1 6番)の元禄13年塔の3基を地蔵庚申としている。おそらくこの本を参考にしていると思われるが 元禄の地蔵は庚申塔ではない。

ともかく多摩地方の地蔵庚申がどのような分布を示しているのか、私の『三多摩庚申塔資料』(昭 和40年刊)をベースにして、福井さんの「小金井市の石仏」(『いしぶみ』5号 昭和53年刊)、島 田実さん他の『八王子市石造遺物総合調査報告書』 (昭和44年刊)、犬飼康祐さんの『日野市庚申 塔一覧表』(稿本 昭和57年刊)で補って年表を作ってみると、1〜20の20基に加えて、 この他に区部(目黒区か)から移されてきた21と、六地蔵を主尊とした、22がある。

No.年銘塔形所在地備考
1寛文2年光背型狛江市岩戸北 慶岸寺多摩初出
2寛文4年光背型稲城市東長沼 常楽寺
3寛文6年光背型小金井市貫井南4 滄浪泉園
4寛文6年光背型小金井市中町 金蔵院
5延宝1年光背型町田市木曽町上宿
6延宝8年光背型調布市深大寺元町 池上院庚申年
7延宝8年光背型稲城市東長沼 常楽寺
8延宝8年光背型府中市若松町 常久共同墓地
9元禄2年光背型町田市真光寺 路傍
10元禄10年光背型町田市相原町丸山 墓地
11元禄10年光背型八王子市川町
12元禄11年光背型日野市本町
13元禄15年光背型町田市高ヵ坂 地蔵堂
14宝永3年光背型町田市成瀬 三又
15正徳2年丸彫稲城市百村 赤坂
16正徳6年丸彫日野市日野 地蔵堂
17享保8年丸彫町田市成瀬 東光寺一猿
18延享2年丸彫日野市程久保 路傍
19宝暦6年光背型三鷹市中原 路傍
20年不明丸彫日野市石田 石田寺
21寛文2年光背型昭島市拝島町普明寺移入
22元禄15年石幢町田市野津田 丸山路傍六地蔵

年表を基にして、移入と六地蔵石幢を除いて市町村別に塔数を見ると、町田市が6基で最も多く、 次いで日野市の4基、以下、稲城市の3基、小金井市の2基、狛江市・調布市・府中市・八王子市・ 三鷹市の各1基の順である。

こうして見ると、舟型(光背型)で多摩川沿いの条件を満たすのは、調布市にも分布があるから間 違いではないけども、稲城市にある舟型の2基がより適切といえる。調布市並みを考えれば、狛江市 や府中市、さらに日野市にも資格がある。

次に神奈川県川崎市の場合を分析しよう。八代恒治さんの『川崎市の庚申塔』(昭和40年頃刊)で 地蔵庚申の年表を作ると、以下のとおり1〜21の21基である。他に六地蔵を主尊とした塔が22である。

No.年銘塔形所在地備考
1寛文3年光背型高津区久地 養周院
2寛文3年丸彫中原区新城 又玄寺
3寛文4年丸彫幸区北加瀬 寿福寺
4寛文9年光背型中原区井田 善教寺合掌
5寛文11年板駒型高津区野川 西蔵寺合掌(現・宮前区)
6延宝5年丸彫中原区木月 大楽寺
7延宝7年丸彫幸区都町 延命寺
8延宝8年光背型幸区小倉 無量院庚申年
9延宝8年光背型川崎区大島町 真観寺
10延宝9年光背型高津区久末 蓮華寺
11天和1年光背型中原区下小田中 金竜寺
12元禄7年光背型多摩区生田 観音寺
13元禄7年丸彫多摩区生田 不動堂
14正徳2年板駒型多摩区上麻生 浄慶寺合掌(現・麻生区)
15正徳6年光背型多摩区生田 明王不動
16享保1年丸彫高津区末長 浄慶寺合掌(現・麻生区)
17享保7年光背型多摩区宿河原 橋本
18享保7光背型中原区市ノ坪 東福寺
19享保X年丸彫高津区久地 街道筋
20年不明光背型中原区今井南町 大乗院
21年不明光背型高津区千年 弁天社
22寛文1年灯篭幸区小倉 無量院六地蔵

区別の塔数は高津区6基、中原区と多摩区が各5基、幸区3基(他に六地蔵灯篭が1基ある)、川 崎区1基の順になる。仮に初期を天和までとし、板駒型を含めて舟型とすれば、高津区が3基、中原 区が2基、川崎区と幸区が各1基となる。川崎の塔については、川崎郷土研究会発行の『川崎市石造 物調査報告書』(昭和56年刊)を森村氏が参照したのではあるまいか。これには、17基が収録され ている。

さらに東京区部と各種の資料を基にまとめて作表したのが、表1の「東京区部の地蔵庚申塔」であ る。記載洩れもあるけれども、区部の大体の傾向はつかめる。北区の21基を筆頭に、2位が足立区 の14基、3位が葛飾区の7基、次いで大田区と渋谷区の5基、以下、墨田区・世田谷区・板橋区の 各4基、荒川区・練馬区・江戸川区の各3基、文京区・台東区の各2基、新宿区・品川区・目黒区・ 杉並区の各1基という具合である。

表1.区部の地蔵庚申塔
区名塔数
新宿1
文京2
台東2
墨田4
品川1
目黒1
大田5
世田谷4
渋谷5
杉並1
21
荒川3
板橋4
練馬3
足立14
葛飾7
江戸川3

『異型の深夜』で示された多摩川縁りと初期の光背型地蔵庚申という条件から見れば、前記の年表 や表1の傾向から推して、調べて書かれていることがうかがわれる。先に小説から引用した地蔵庚申 の分布には、大きな誤りはないにしても、調布市より稲城市のほうがふさわしいなど、かなずしも適 切だとはいえないだろう。

多摩川縁りという限定を除けば、足立・北の両区を中心とする地域が塔数も多く、初期の地蔵庚申 の状態を保っているといえる。こうした作表を通じて、都内の地蔵庚申の分布状態が明らかになって きた。さらに横浜市や埼玉県を加えた武蔵国の範囲でとらえたら、面白い結果がえられるのではない だろうか。

小説はあくまでも小説であって『異型の深夜』は、石仏の研究や調査を主体としたものではない。 作者が自分なりに調べて書いているのも、これまでの分析と比較すればわかる。専門的にみれば、お かしな点や誤っている箇所があるにしても、小説として成功であればよいだろう。ただ私たちは、小 説の石仏に関して書かれた事柄に疑問のある所から発想を得ればよい。それをバネに調べて、疑問や 誤りを明らかにするわけだ。

かねてから地蔵庚申について興味を持っていながら、特に手をつけなかった。『野仏』の地蔵特集 でも、日待地蔵でお茶を濁しただけだった。『異型の深夜』に触発され、資料を集めて分析してみる と、地蔵庚申の方向性が見えてきた。まだまだ、調査洩れもあろうし、誤って地蔵庚申にされた塔も あろう。それらをチェックし、広範囲に地蔵庚申を追っていけば、庚申塔の中での位置づけも明らか になるし、特徴もはっきりする。小説の読み方としては、まことに異型だろうが、発想の素材を見付 ける一法としての読書もまた楽しい。

初出

『野仏』第15集(多摩石仏の会 昭和58年刊)所収

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