庚申塔物語

二手青面の系譜

二手青面の系譜

東葛飾の二手青面

庚申塔の刻まれた主尊像では、青面金剛が圧倒的に多い。儀軌に説かれた青面金剛は4手像である けれども、一般に庚申塔面に彫られている像といえば、1面の剣人型(標準型)か合掌型の6手立像 である。詳細にみると多数の青面金剛の中には3面像も見受けられるし、少ないながら2手や4手、 8手の刻像も存在する。

千葉県東葛飾地方には、特徴のある2手青面金剛を主尊とする庚申塔が14基みられ、柏、松戸、 鎌ヶ谷、沼南(東葛飾郡)の3市1町と印旛郡白井町にまたがる東西12キロ、南北8キロにわたる 地域に散在する。清水長輝氏は『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊)の中で、合掌2手像として 松戸市古ヶ先・鵜ノ森神社の元禄16年塔を、剣人2手像の例に同市上矢切の正徳4年塔と沼南町塚 崎・寿量院の同年塔の計3基をあげている。その後、庚申懇話会の横田甲一氏が東葛飾地方の調査で 発見された塔を加えると、現在のところ14基が確認されている。

清水氏は松戸の元禄塔について「神をすべらかしふうにした女神像的なところが見受けられる」と し、松戸の正徳塔を「剣と人身をもちながら、二手にしたもので、たいして深い意味もなくあとの四 手を省略したかとも思われるが、神像的な干時がしないわけではない」と説明している(前掲書)。 松戸市上矢切の塔と共に市川市須和町・須和田神社の文化9年塔をあげ、「像の右に『国底立大神』 と大書してあるので、やはり神像と見立てたものか」と解説している。この塔は、系統的には剣人2 手であっても、東葛飾の14基とは姿態が異なる。

横田氏は先に『庚申』66号(昭和48年刊)に「二手青面金剛塔」を発表され、新資料を加えて『 日本の石仏』16号(昭和55年刊)で「再び二手青面金剛について」を論じている。表1は、『日本 の石仏』に載った横田氏の「二手青面金剛像年表」を筆者が型式別に再編したものである。

表1.東葛飾地方の二手青面金剛型式別年表
型式年銘西暦所在地備考
合掌型元禄10年1697沼南町高柳・藤庚申
元禄13年1700白井町折立・香取神社
元禄15年1702鎌ヶ谷市佐津間・大宮大神図59
元禄16年1703松戸市横須賀・正福寺
元禄16年1703松戸市古ヶ崎・鵜ノ森稲荷
合掌型宝永2年1705松戸市中金杉・医王寺
宝永3年1706松戸市松戸新田
宝永4年1707柏市元町・天王社
宝永5年1708松戸市新作・安房須神社
正徳2年1712沼南町箕輪・香取神社
正徳5年1715松戸市下通・宝蔵寺
把手型元禄10年1697沼南町高柳・三叉路
正徳4年1714沼南町塚崎・寿量院図60
正徳4年1714松戸市上矢切・日枝神社

この表からわかるように、東葛飾地方に分布する14基の青面金剛像は、沼南町高柳・藤庚申の元禄 10年塔を初発とし、松戸市下通・宝蔵寺の正徳5年塔までの18年間に造られている。これらの2 手像の特徴として横田氏は、

先ず頭部から見てみると、6手の場合は焔髪・蛇頭・大日如来の宝冠に似たもの等様々であ るがこの二手青面金剛像は、回国僧・遊行僧・修験僧などが冠っていたと想像される頭巾状の ものを冠っている。上衣はチョッキ状のものを着ていて、でている二本の腕は細く頼りない。 庚申信仰から下には山袴又はスカートのようなものを穿き、帯はゴムホース状のものをまとっ ているのが目立った特徴である。足にはくびれがあるので、旅を穿いているのかもしれない。

と2手象の概略にふれた上で、こうした特徴に加えて、

日月、瑞雲の型、犬ころのように窒居している邪鬼、背が低く横長の二鶏、前向きの聞か猿を 挟んだ、言わ猿及び見猿の型など皆大差ない構図である。

とし、18年間の建立期間を考え、

私は本槁でとりあげた二手青面金剛は、総て同一作家の手になったものと推定している。即ち その作者は、講を指導していた思われる僧か修験が、自らのみを振るって刻んだか、またはそ の意向を受けた同一の石工の手になったものと私は推定している。

と結論づけている。さらに沼南町高柳にある正徳4年の六十六部像と結びつけて、願主の浄念がこれ ら2手青面金剛の建立に関与した想像されると、横田氏は論考を結んでいる。

杉並の二手青面

2手像は、東葛飾地方ばかりでなく、関東地方の各地でみられる。

No.年銘塔形所在地備考
1寛文3年笠付型埼玉県大宮市西遊馬 高城寺
2寛文6年光背型神奈川県愛甲郡愛川町田代 上ノ原
3寛文5年光背型東京都三鷹市中原4-16
4寛文8年笠付型東京都杉並区方南 東運寺(釜寺)
5寛文11年光背型神奈川県津久井郡津久井町根小屋
6延宝2年笠付型東京都杉並区高井戸東 松林寺図61
7延宝4年光背型埼玉県北葛飾郡杉戸町
8宝永6年笠付型神奈川県津久井郡相模湖町寸嵐沢 日日神社
9寛文2年笠付型方南2-5 東運寺
10延宝2年笠付型高井戸東3-34 松林寺
11延宝6年笠付型永福1-7 永昌寺
12延宝6年光背型宮前1- 17 小祠(藤庚申)
13延宝8年光背型船橋1-20 観音堂
14天和1年笠付型羽根木2 子育地蔵

先にあげた『庚申塔の研究』に は、寛文期の2手青面として、1〜5の5基をあげ、「二手青面金剛」の項では、前項にあげた東葛飾の塔に加えて、6〜8の3基が取り上げられている。

東京都杉並区は、井口金男氏の調査(『杉並区の石造物』杉並教育委員会 昭和48年刊)によって 9〜12の4基が明らかになっている。これらの2手像に共通するのは、右手に剣、左手に羂索を持つ点であ る。

こうした剣索2手の青面金剛石像は、隣接する世田谷区内にも13〜14の2基がみられる。 羽根木の塔は、3面に猿を配しているところが杉並区永福の塔と類似する。少し 離れているけれども、『庚申塔の研究』でふれた三鷹市中原4-16の寛文6年塔もある。杉並、世田 谷、三鷹の塔をみると、2、3の塔の間で類似しており、同一の石工ないし集団で作られたと思われ るけれども、東葛飾地方にみられるような下の共通性はない。東京の場合は、造立年代が寛文6年か ら天和元年にかけての15年の間であるから、剣索型の塔を建てた刻像塔の指導者が同系の僧侶か修 験であったもしれない。しかし、2基ほどは同一の作者である可能性はあっても、少なくとも異なっ た数人の石工が2手像を刻んだものと思われる。

表2.東京都の二手青面金剛型式別年表
型式年銘西暦所在地備考
剣索型寛文6年1666三鷹市中原4-16
寛文8年1668杉並区方南2-5 東運寺
延宝2年1674杉並区高井戸東3-34 松林寺図61
延宝6年1678杉並区永福1-7 永昌寺
延宝6年1678杉並区宮前1- 17  小祠
延宝8年1680世田谷区船橋1-20 観音堂
天和1年1681世田谷区羽根木2 子育地蔵
輪矛型寛文10年1670町田市相原町 大戸観音図63

東葛飾地方では、把手型も加わる合掌の2手青面であるに対して、表2にみられるように、杉並と その周辺に分布する2手像では、右手に剣、左手に羂索を持つ青面金剛であった、領地では違いをみ せている。清水長輝氏は、2手青面金剛に2系統あるとし、一つの系統は、初期に多い剣索で、不動 の影響を指摘している。もう一つは、6手の中央2手だけを残して、他の4手を省略した形式とみて いる。後者は、さらに合掌型と剣人型とに分けられる。合掌2手像の中には、神像として受け取られ た形跡が感じられることも指摘している(『庚申塔の研究』)。その意味では造立年代のズレと杉 並およびその周辺の塔が不動系統であり、東葛飾の塔が省略系統という地域差をみることができる。

津久井の二手青面

神奈川県津久井郡津久井町には、清水長明氏が『相模道神図誌』(波多野書店 昭和40年刊)で紹 介されあ3基の2手青面金剛像が分布する。すなわち、

年銘塔形所在地備考
寛文2年光背型馬石 県道路傍図62
寛文11年光背型根小屋 谷戸
寛文11年光背長竹 稲生

である。このうち、馬石の像は、上部に「奉造立山王廾一社」銘が刻まれているから、山王の本尊と 考えられていたのであろう。しかし基部に三猿が浮彫りされており、清水氏は、同書で「銘文や形式 からみて、写真19(筆者註 愛川町の寛文8年塔)・20(筆者註 根小屋塔)とっけいとうを同じく する異形の青面金剛とみられる」という見解を述べている。この像[図62]は、右手に剣、左手で先 端に円鏡状のものがついた棒を持っている。 根小屋と長竹の2手像は、清水氏が「頭部が異常に大 きく、全体の感じは地蔵に近い」(前掲書)というほど、一見すると地蔵と思われる。この塔の主尊 を地蔵でなくて、2手青面金剛とされたのは、実はこの系統の祖形が同県愛甲郡愛川町田代・上ノ原 にあるからである。それは寛文8年の造立で、武田久吉博士が戦前に神奈川県の道祖神調査の際に発 見された。この塔にふれて、博士は『路傍の石仏』(第一法規 昭和46年刊)で

一見地蔵かと思われるような立像を浮彫りにしてあった。しかし熟視すれば、それが地蔵仏で はなく、たしかに青面金剛薬叉であることが分かる。服装は、普通の青面金剛のものとはやや 異なって、左の肩から、袈裟のようなものを斜めにかけているが、向脛を露呈するところは他 のものと共通である。しかし帽は三角形に尖った物でなくて、平たい物の頂点に小さな鬼面の ようなものが付いている。そして三個の火焔のある円光を握っている。右手には長い戟を握り 、左手を曲げて件の円光をつかんでいる。

と記している。清水長輝氏は、

地蔵ともみえる二手像が、右手に長い矛を突き、左手はうしろにまげて光輪をもつような形に つくられてある。やはり青面金剛と気がつくには、やや時間を要する奇抜さである。江戸の造 塔も儀軌をみないで、単に青面金剛とはこんなものだろう程度の風説をもとにして、つくった ものと思われる。(『庚申塔の研究』)

と、この塔の造立の背景を推測されている。

愛川町には、上ノ原當に続いて翌寛文9年に川北・沢平に津久井の両塔に類似した2手青面金剛が 造られている。さらに寛文10年には、東京都町田市相原町・大戸観音にある同形2手像[図63]が 造建された。これら4基の地蔵風の輪矛型2手青面は、上ノ原塔を祖形として同一石工、ないしは系 統を同じくする石工の作によるものである。なお、上ノ原塔などの輪矛型5基については、多摩石仏 の会の多田治昭氏が同会誌『野仏』14集(昭和57年刊)に、「愛川周辺の二手青面金剛塔」を発表 されている。

津久井郡には、もう1基の2手青面金剛像がある。先にもふれた相模湖町寸嵐沢・日日神社の宝永 6年塔である。近くにある「奉造立山王為庚申供養二世安穏之也」銘の合掌弥陀を主尊とした延宝5 年塔の影響を受けたものであろうか。清水長輝氏は、この2手青面金剛像を「山王の系統をひくと思 われる神像系」とし、さらに「密教的な六手型の異様な荒々しさをことさら避けて、もっとおだやか に表現しようとし、2手合掌という形におちついたものであろう」という(前掲書)。

表3.津久井地方の二手青面金剛型式別年表
型式年銘西暦所在地備考
剣棒型寛文2年1662津久井町馬石図62
輪矛型寛文11年1671津久井町根小屋 谷戸
寛文11年1671津久井町長竹 稲生
合掌型宝永6年1709相模湖町寸嵐沢 日日神社

ついでに隣接する山梨県北都留郡上野原町上野原・慈眼寺にある文化10年塔[図64]にふれてお く。右側面に「旧塔 ニ延宝九年 ト有」の銘があるから、再建塔である。おそらく旧塔には合掌弥陀像 が刻まれていて、青面金剛が普及した時代に再建されたために、このような合掌2手像が造られたの でないだろうか。ただこの塔の場合は、青面金剛が弓と矢を背負っており、4手像とも受け取れる。

以上に述べたように1都3県の事例を取り上げても、東葛飾地方の合掌型と把手型、杉並区の剣索 型、津久井町の剣棒型と輪矛型、上野原町の弓矢を背負う合掌型と、それぞれに2手青面の地域特性 が現れていて非常に興味深い。さらに、広く全国各地の2手青面に範囲を及ぼして分析すれば、前記 の型式は違う像が現れたり、分布の疎密や造像年代のばらつきもみられ、面白い結果が出るだろう。 それはまた、それぞれの地域の特性を知る上でも必要である。単に一地域─たとえば東葛飾地方だ けではうかがえないことでも、杉並や津久井などの比較によって、明らかになる部分も出てくる。

茅ヶ崎辺の四手青面

神奈川県茅ヶ崎市を中心に、隣接する藤沢、平塚の両市と中郡寒川町の3市1町にわたって、日本 石仏協会の松村雄介氏が「大曲型」と呼んでいる4手青面金剛が分布する。清水長明氏が『庚申』2 4号(昭和36年刊)に発表された「承応・明暦の青面金剛」で3基明らかになり、さらに1基を加え て『相模道神図誌』で広く知られるようにようになった。

茅ヶ崎市甘沼・八幡神社にあって、現在は神奈川県立博物館に写された承応3年塔にふれて、清水 氏は「石造の青面金剛としては、相模だけでなく、全国的にみても、もっとも古いものの1つと思わ れる」(前掲書)と述べている。『庚申』では、同塔と同市行谷の承応4年塔、藤沢市遠藤の明暦3 年塔の「三基はそれぞれ一、二の小さなちがいを除けば、非常によく似ている。おそらく同じ石工の 手になったものであろう」とし、「蝶ネクタイ」状のものをつけている、顔が大きく4頭身、4手の 持物、二猿の姿態、などの共通点を上げている。

相模川沿いの前記3市1町の狭い限られた地域に分布する大曲型の4手青面は、現在のところ、地 元の天ケ瀬恭三氏によって7基が明らかになっている。松村氏の『相模の石仏』(木耳社 昭和56年刊)によると、

年銘塔形所在地備考
承応2年笠付型寒川町大曲 八幡神社図65
承応3年光背型茅ヶ崎市甘沼 八幡神社(言・県博)
承応4年光背型茅ヶ崎市行谷 金山神社
明暦2年光背型藤沢市遠藤 御岳神社
明暦2年光背型平塚市大島 正福寺
明暦4年光背型茅ヶ崎市十間坂 神明神社
年不明光背型平塚市札場町 長楽寺

である。この中で、寒川の承応2年塔のみが下部に二鶏を伴っており、塔形も異なった笠付型である 点が他の6基との相違である。しかし清水氏が指摘した共通点を持っているから、同一か同系の石工 の手になったものと推測される。

むすび

千葉・東京・神奈川の2手青面の系譜をたどり、神奈川の大曲型4手青面をここで取り上げた意図 は、青面金剛と一括できても、詳細にみると像容を異にし、地域特性が生じている点を指摘したかっ たからである。これは単に青面金剛に限られた問題ではなく、他の石佛についてもいえるのである。 それぞれの石佛の分布密度も地域によって疎密がみられるのは、双体道祖神の分布傾向からもわかる であろう。2手青面の場合は、持物の組み合わせが単純であるから、4都県の事例をあげれば理解し やすいと考えたからである。そして大曲型4手像では、持物について詳しくふれなかったけれども、 4手像にも2手像のような地域特性がある1例として示した。

石佛に地域特性がみられるのは、石佛がそれぞれの地域の風土と深くかかわっているからである。 石佛の素材をどこから得たのか、たとえば埼玉を中心に分布している青石の板碑型は、原石の産地と 当時の物流とも関連している。さらに僧侶や修験などの指導者、造立する立場の施主の経済状態、信 仰傾向や態度、あるいは石工の技術なども併せて考えなければならない。つまり、地域をとりまく環 境が、そして歴史が石佛を生み出したといっても過言ではない。そのことは、逆に石佛から地域に歴 史、特に民間信仰史が読み取れることを意味しているのである。

とかく、狭い地域だけを研究の対象としていると、その地域の特性すら充分に掴めない。その地域 ではきわめて当たり前であると思われるような事柄が、実は他の地域と比べてみると、大きな特徴と なっている場合さえある。研究対象の地域を重視するのはいうまでもないが、少なくともその周辺地 域にまで注意を払い、できるならば遠隔地域と比較研究が必要なのである。また、そうすることによ って、逆に自分の研究対象としている地域の特性を充分に把握できるのである。

初出

『石仏研究ハンドブック』(雄山閣出版 昭和60年刊)所収より抜粋

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