庚申塔物語

三多摩の猿田彦塔

三多摩の猿田彦塔

7月の例会で「三多摩の庚申塔」について発表したが、時間的な制約もあって細かな個々の事例に はふれずに、ごく大要を述べたに過ぎなかった。この猿田彦塔についても、西多摩の山間部に多くの 分布が見られ、檜原村白倉に刻像塔が1基あることを示した程度の簡単な説明であった。そこで発表 後に発見した青梅市御岳の2基の猿田彦塔と、引用2基を加えて、ここに三多摩の猿田彦塔について 述べてみたい。

現在三多摩には、20基の猿田彦塔が発見されている。その分布は檜原村6基、青梅市3基、五日 市町(現・あきる野市)2基、奥多摩町2基、秋多町(現・あきる野市)1基、日ノ出村1基(以上 西多摩)、八王子市1基(南多摩)、府中市2基、狛江町1基、清瀬町1基(以上北多摩)である。 西多摩の15基に対して北多摩4基、南多摩1基で、前に述べてたように西多摩の山間部に多い。ま た檜原村白倉の1基を除いて、他の19基は文字塔である。三多摩には、猿田彦塔を含めて約千基の 庚申塔が現存するから、猿田彦塔の庚申塔に占める割合は、2%で微々たるものである。その理由の 1つとして、猿田彦の勢力が強くなった頃には、庚申塔の造塔のペースが落ちた衰退期に当たってい た事が考えられる。

しかしながら、造塔面では微々たる猿田彦塔ではあるが、今日、三多摩各地を調査してみると、青 面金剛を猿田彦と考えている所が多くみられるから、猿田彦の影響は広範囲にわたっていたと思われ る。それがまた、青面金剛刻像塔をそのまま残して、新たに猿田彦塔を造塔しなかったために、猿田 彦が少ない原因ともなったのであろう。ついでながら青面金剛を猿田彦と考えている事例を西多摩・南多摩・北多摩の順に各地1例づつあ げておく。

(西)五日市町(現・あきる野市)伊奈上宿の庚申堂には、高さ1メートル68センチ、最大幅7 5センチの舟型合掌6手の青面金剛(年不明)があるが、これは猿田彦と考えられて、9月1日に青 年会が主宰して猿田彦の祭をおこなう。祭には「猿田彦」と書いたノボリを立てる。昔は、この青面 金剛像に願をかけるのに、赤い旗に「奉納 庚申」とか「猿田彦大神」とか書いて納めた。

(南)日野市平山の徳善院境内にある合掌6手の青面金剛像(享保7年)の後に、「庚申爰祭祀供 養者爲猿田彦大神祭礼塔也 三密加持速疾顯重々帝綱即身名敬白弘裕」の塔婆が立っていた。

(北)小金井市梶野町・市杵島神社入口の合掌6手の青面金剛の笠付塔(宝暦2年)のある小祠に は「奉納 猿田彦尊 昭和三十九年二月」と書かれた赤い布が納めてあった。

さて三多摩では、猿田彦塔がいつ頃から建てられるようになったのだろうか。現在調査がなされた もので最古の塔は、青梅市御岳・滝本にある宝永6年造立の笠付塔で、最新の塔は、檜原村小沢の昭 和3年塔である。以下、年代順に一表にしてみると次の様になる。

No.年銘種別碑型所在地備考現況
1宝永6年文字笠付型青梅市御岳・滝本三猿
2安永3年文字笠付型五日市町乙津三猿現・あきる野市
3文化11年刻像山角型檜原村白倉日月三猿
4天保2年文字自然石青梅市御岳・滝本

5天保8年文字角柱型檜原村下元郷上部欠失
6天保13年文字角柱型清瀬町中清戸
現・清瀬市
7安政4年文字角柱型檜原村神戸

8万延1年文字自然石檜原村上元郷庚申年
9万延1年文字自然石日ノ出村平井庚申年現・日の出町
10慶応3年文字山角型八王子市大横町三猿
11明治初文字自然石秋多町瀬戸岡天保4銘現・あきる野市
12明治7年文字自然石五日市町乙津
現・あきる野市
13明治23年文字自然石府中市本宿小祠内
14明治33年文字角柱型檜原村神戸

15明治45年文字自然石府中市四ツ谷

16大正14年文字自然石奥多摩町川野小祠内
17昭和3年文字自然石檜原村小沢

18不明文字自然石青梅市青梅
現・住江町
19不明文字不明奥多摩町川野引用
20不明文字角柱型狛江町和泉・駄倉引用現・狛江市

次いで、各塔についての簡単な説明をしておこう。1は、正面に年銘と「猴田彦大神」の銘があり 左側面に3人、右側面に4人の氏名が刻まれている。1以外の塔では「猿田彦」を用いているのに対 してこの塔では「猴田彦」としているのが珍しい。また、この塔の年銘「宝永六己丑年十月廾三日」 は、庚申のアタリ日である。

2は、正面に主銘と道標、右側面に年銘と地銘があり、左側面に「庚申待供養 講中 當所中 現 住明 叟」の銘がみえる。

3は、三多摩唯一の刻像塔で、塔の正面上部に日月、下部に三猿を刻み、中央に杖を持った猿田彦 の刻像が彫られている。右側面に「庚申塚 文化十一戌□十二月吉日」、左側面に「猿田彦大神」の 銘がある。塔の裏面には、合掌6手の青面金剛像とその下に三猿が彫ってあるから、青面金剛刻像塔 の改造であろう。この塔の隣に「富士嶽神社」と彫った自然石があるので、富士講との関連があるの かも知れない。

4の塔の裏面には、年銘と「齋藤石見栄俊」の銘がある。この塔が御師の家の入口にあることや、 「石見」の銘から造塔者は、御岳山の御師と思われる。富士講の指導者が庚申信仰と結びついている ことは衆知であるが、御岳山の御師と庚申信仰との関係は明らかにされていないので、今後の研究課 題である。

5の塔の「□保八戊歳□□神日」の年銘に「吉日」ではなく「神日」としたのが珍しい。万人講の 造立である。

6は、日枝神社境内にある塔で、下清戸村の小寺文次郎が施主である。「御宮廻舗石」の銘は、舗 石の奉納を示すものだろうか。

7は、神戸中の造立で、塔の上部が欠けている。

8は、庚申年の建立で、願主岡部忠兵ヱなど9名と「寄加 山田有堅」の人銘が彫られている。山 王社の境内にある。5と同様に、年銘に「安政七庚申五月神日」と「神日」の銘がみえる。

9も同様庚申年の造立で、和田氏の発起で80餘人の講中が塔の建立に関係している。

10は、宝樹寺境内にある塔で、「慶応三年丁卯正月庚申日」の年銘だから、同年1月5日の造立で ある。この塔の造立者は、「上州屋弥兵衛 織屋善兵衛 大竹宗吉 上州屋今五郎 八木屋兵次郎」 とあるから商人であろう。

11の塔は、瀬戸岡の庚申塚にあり、「天保四年癸巳十一月」の年銘があるが、八代恒治氏の調査に よると、この塔は明治初年に再建されたものである(『三多まの庚申塔』)。現在、塚の後方の藪に 倒れている自然石の庚申文字塔(天保4年)を廃仏棄釈の影響を受けて壊して猿田彦塔を建てたので はないだろうか。明治元年には、五日市町(あきる野市)の養沢や盆堀に廃仏棄釈の風潮が起こった ことは衆知の事実である。

12は、青木平の熊野神社境内にあり、浦野源兵衛など8名の造立である。神社の隣にある陽谷院境 内の山角型の青面金剛刻像塔(文政6年)が破壊されているのも、あるいは廃仏棄釈の影響かも知れ ない。

13は、本宿の甲州街道より北に入った三叉路の小祠内にある。「明治廾三年」の年銘と並んで「延 享二年乙□□」とあるのは、この場所にある破損の甚だしい青面金剛像の造立を示す年銘ではないだ ろうか。

14の台石に「鳥居甚□□」とあるのは、この塔の造立者であろう。

15は、三屋の路傍の小祠内にある塔で、土方寿喜の建立である。

16は、小河内ダム工事の爲に、現在の将門庵東の山上に移されたもので、川野の南組中の造立、世 話人の川村輝蔵など6名氏名が塔の裏面に刻まれている。

17は、年銘のある塔のうちで最新のもので、濱中元吉がこの塔を建ている。

18は、住江町の住吉神社の末社・八坂神社の前にある塔で、「猿田彦大神」の陰刻以外何も彫られ ていない(現在は、住吉神社石段脇に移転されている)。

19は、東京市役所編の『小河内貯水池小誌』に載った塔で、銘文・碑型など細部は分からない。

20は、八代恒治氏の『三多まの庚申塔』よりの引用で、この長細い山角型の塔の裏面には「庚申待 講中」とあり、下部に道標銘がある。

次に猿田彦塔と三猿の関係を調べてみよう。文化以前の塔がついていて、天保以後の塔には、10を 除いて三猿がないのは、何か理由があるのだろうか。その理由を明らかにする鍵として、文字塔と3 猿との関係があげられる。三多摩の文字塔の集計は出来ていないので、西多摩の猿田彦塔を除いた1 10基の文字塔を分類してみると、宝暦以前の文字塔では三猿付が5基、無しが1基、明和から文政 の塔では三猿付11基、無しが58基となり、天保以後の35基の文字塔には三猿が付いていない。 宝暦以前の塔で三猿の無いのは、檜原村大沢の灯籠型の塔で、宝暦までは文字塔と三猿の相関度は高 い。続く明和から寛政には、三猿付の文字塔は順次すくなくなり、文化文政にはほとんど三猿付の文 字塔はみられなくなって、ついに天保以降、三猿が文字塔から消されている。これは主として南多摩 にみられるもので、三猿の刻像の代わりに文字で三猿を表した「三疋申」8基、「申申申」1基、「 三疋猿」1基が安永から嘉永に作られているのは注目すべきであろう。これは、三猿が文字塔から消 え去る過渡期に現れた現象であろう。

西多摩においては、猿田彦塔の分布のある市町村には道祖神の文字塔の分布があり、福生町・羽村 町・瑞穂町の平野部の町には猿田彦塔も道祖神も共にみられない。猿田彦塔では、檜原村に多く分布 しているのに対して、道祖神では奥多摩町に多く(7基)分布している。また年代的にみても、道祖 神は、日ノ出村の天明7年を初出として五日市町(現・あきる野市)の大正9年まで猿田彦塔と並行 して建てられている。その塔数も17基で猿田彦塔の15基と大差がないのである。

以上述べた様に、三多摩の猿田彦塔は、江戸末期より道祖神の文字塔と並行して、西多摩の山間部 を中心として造塔された。また造塔面では、微々たる猿田彦塔ではあるが、三多摩各地で青面金剛を 猿田彦と考えており、猿田彦の影響は大きい。1基を除いて、天保以降の猿田彦塔に三猿がみられな いのは、文字塔に三猿が結びつかなくなった時代の傾向であろう。これらは、三多摩の猿田彦塔につ いて云えることで、今後、さらに他地域の猿田彦塔との比較がなされるならば、三多摩の猿田彦塔の 特色も明確となるであろう。ここではふれなかった猿田彦塔造塔の推進者や協力者、あるいは伝播の 経路など研究すべき事項は多い。これからは、猿田彦塔だけなく、他の金石銘や古文書・日記・掛軸 などにも手を拡げる必要があると考える。

昭和39年7月10日 記

初出

『庚申』第38号(庚申懇話会 昭和39年刊)所収

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