60日毎に巡ってくる庚申の日に、一夜を徹して延命長寿を祈るのが庚申信仰である。平安時代や 鎌倉時代には、宮廷貴族や武家の間で庚申日の夜に詩歌管弦などを楽しんで眠らずに過ごした「守庚 申」が行われた。室町時代も半ばを過ぎるころから庚申縁起が作られ、礼拝本尊が導入されて講的な 仕組みができてきた。江戸時代には、各地で庚申講が結成され、供養のための庚申塔の造立が盛んに なってくる。
最古の庚申塔は、埼玉県川口市領家・実相寺にある文明3年(1471)の庚申板碑である。次い で足立区宮城・原田家の文明15年(1483)の庚申板碑(足立区立博物館に寄託)、練馬区石神 井・区立郷土資料室の長享2年(1488)の庚申板碑(同区春日町・稲荷神社旧在)と続く。
すでに中世には多摩地方で庚申信仰が広まっていたことは、あきる野市牛沼・秋川神社旧蔵の永禄 2年(1559)懸佛に「生(青)面金剛」の佛名が刻まれた点からもうかがえる。この懸佛に「文 殊 薬師 生面金剛 釈迦」と「六観音 阿弥陀 南無山王二十一社」とあり、庚申縁起の礼拝本尊 と対応している(小花波平六「棟札・懸仏・梵鐘にみる庚申信仰」『庚申』第48号所収)。また青 梅市今寺・常磐樹神社旧蔵の文禄4年(1595)棟札に「右奉社頭造立意趣者本願人數奉數年庚申 待也」と記されていることからもうかがわれる(齋藤真指『今寺村誌草稿』)。
さらに「申待」と彫られた瑞穂町高根・田中家墓地の庚申板碑の存在は、下半部が失われて年銘を 欠くが、庚申塔の造立が中世に遡ることを意味する。また最近になって八王子市下恩方町で年銘を欠 いた、中世と推定される「甲神供養」「一結衆」の銘を刻む宝篋印塔が発見された(縣敏夫「八王子 市下恩方町 中世庚申供養の宝篋印塔」『野仏』第28集所収)。
近世に入って八王子市南浅川町大平・山王社所蔵の寛永5(1628)銘の懸佛に「為庚申供養 奉待十二人者也」とあり、瑞穂町殿ケ谷・正福寺旧蔵の万治2(1669)銘の梵鐘には「庚申待衆 九人」、八王子市散田町・真覚寺所蔵の万治3(1670)銘の梵鐘には「家中庚申人数」と「庚申 待数輩」の銘文が刻まれている。それらの銘からみて、この時期の多摩地方で庚申待が行われていた ことが証明される。
『町田市の文化財 第三集』によると、30年前には御殿峠にある庚申塔に「承応」の年号が判読 できたとある。しかし現在これを読み取ることはできないので、三多摩最古の塔はさておいて、現存 最古の塔は、調布市深大寺町にある明暦2年(1656)層塔である。ところが、これも他所─多 分群馬県と思われる─から移動してきたものなので、多摩地方の塔とはいいがたい。
前記の2基を除いて多摩地方における在銘現存最古の庚申塔は、狛江市岩戸北・慶岩寺の地蔵主尊 の寛文2年(1662)塔であるから、庚申塔が造立されたのは、前記の懸佛や梵鐘の遺物から遅れ て寛文2年以降のこととなる。それ以後、多摩地方には1,300基を越す庚申塔が各地に造立されて いる。
東京を中心とした庚申塔の変遷をみると、第1期が室町〜安土桃山時代(1471〜1614)の 「板碑時代」、第2期が元和〜延宝年間(1615〜81)の「初期時代」、あるいは「主尊混乱時 代」、第3期が天和〜天明年間(1681〜1788)の「青面金剛時代」または「最盛期」、第4 期が寛政(1789)以降の「文字塔時代」あるいは「末期」の4期に区分できる(清水長輝『庚申 塔の研究』)。これを多摩地方の場合にてらしてみると、第1期にあたる時期は、瑞穂町の庚申板碑 と八王子市の庚申宝篋印塔各1基の建立に過ぎないが、「庚申板碑・宝篋印塔時代」といえる。
前にもふれたように、在銘現存最古の庚申塔は、狛江市岩戸北・慶岩寺の地蔵主尊の寛文2(16 62)年塔である。これ以後、寛文4年の稲城市東長沼 常楽寺の地蔵光背型塔が続き、寛文5年に は武蔵野市吉祥寺東町・安養寺の六字名号を刻む板碑型塔、寛文6年には小金井市貫井南町・滄浪泉 園や同市中町・金蔵院の地蔵光背型、調布市深大寺東町・諏訪神社の弥陀来迎光背型塔、三鷹市中原 4丁目の青面金剛光背型塔と庚申塔の造立が増えてくる。この後に造立された寛文年間の塔の主尊を みると、大日如来や青面金剛・3猿・1猿と変化に富んでいる。
八王子市の場合を見ると、第1期に当たる時期には市内各地で多くの板碑が造立されているけれど も、現在までに庚申板碑を1基も見出していない。その一方、下恩方町では中世と推定される「甲神 供養」銘の宝篋印塔が発見されたから、この期は「庚申宝篋印塔時代」といえる。
次いで、江戸時代となった第2期に当たる延宝から宝永までの時期(1673〜1711)には、 青面金剛を主流としながらも不動・弥陀定印・地蔵が庚申塔の主尊として登場している。さらに遡れ ば、庚申塔ではないけれども、寛永9年懸佛の弥陀定印もあって、主尊が乱立した「主尊乱立時代」 といえるだろう。
前期においても、主尊の中で青面金剛が占める割合は高かったけれども、これらもやがて青面金剛 に統一されて行く。正徳年間から寛政年間まで(1711〜1804)は、青面金剛を主尊とした刻 像塔が全盛の時代を迎える。第3期は、「青面金剛時代」とみるこができる。
庚申塔の造塔は、享保年間(1716〜36)・安永年間(1772〜81)・寛政年間(178 9〜1801)と3つのピークを示したけれども、全体的傾向として、時代が下るに従ってしだいに 減少している。一方、文字塔では安永を境にしてその数を増そうとしている。安永年間までの文字塔 では、「庚申供養塔」としたものが多いのに対して、天明年間(1781〜89)や寛政年間には、 ほとんどの塔が「庚申塔」としているのが対照的で、何かしら庚申塔造立の変化を暗示しているよう に感じられる。
安永年間から文字塔が増加する徴は、享和年間になると明確となり、それまで青面金剛刻像塔の塔 数が常に文字塔の塔数を上回っていたのが逆転している。文化(1808)以降の第4期には文字塔 が比率を高めながらも、庚申塔全体の造立からみれば衰退期となって現在に至っている。この第4期 は、「文字塔時代」と呼ぶことができる。
青梅市内の場合をみると、青梅・仲町の山腹にある寛文2年(1662)に造られた山王社石祠に は、「守護庚申不疑 実多残余共□」の銘文があったと『青梅郷土誌』にあるが、現在、屋根部と台 石が残っているものの、肝心の銘文が刻まれた室部は失われて今はない。市内の庚申塔の造立が始ま るのは、黒沢1丁目小枕の寛文10年(1670)三猿塔からである。次いで吹上・宗泉寺の延宝8 年(1680)「青面金剛」塔で、市内ではこの寛文〜延宝年間が「初期時代」あるいは「主尊混乱 時代」といえよう。
元禄にはいると4年(1691)に河辺、10年(1696)に畑中・木野下・成木、14年(1701)に和田町と青面金剛の刻像塔が現れ、同じ頃の元禄11年(1698)に吹上で勢至菩薩を 主尊とする刻像塔が造られるが、これは例外とみるべきであろう。以下宝永年間(1704〜10) に4基、正徳年間(1712〜16)年に1基、享保年間(1716〜36)に3基、元文年間(1 736〜41)に2基、延享年間(1744〜48)に1基、宝暦年間(1751〜64)に2基、 明和年間(1764〜72)に2基というように青面金剛の刻像塔が建てられる。この期の宝永6年( 1709)に2基、延享1年(1744)と宝暦10年(1760)に各1基の計4基の文字塔が みられる。元禄から明和の期間は、第3期の「青面金剛時代」と特徴づけられる。
藤橋の寛政5年(1793)塔を含めて寛政年間(1789〜1801)に4基、享和3年(180 3)に1基、文化年間(1804〜18)には9基、文政年間(1818〜30)に4基、天保年 間(1830〜44)に8基、嘉永年間(1847〜54)に2基、安政4年(1857)に1基、 万延1年(1860)の庚申年には3基、元治2年(1865)、慶応2年(1866)、明治33 年(1900)、明治41年(1908)に各1基の文字塔が建てられた。この間の文化3年(180 6)から明治32年(1899)にかけ4基の刻像塔(内2基は再建塔)がみられる。寛政から明 治にかけての第4期は、「文字塔時代」と呼べる。
八王子と青梅の両市でみられる造塔の傾向は、第1期を除いて多少の造立年代の違いがあるにして も、傾向としては、第2期/主尊混乱時代〜第3期/青面金剛時代〜第4期/文字塔時代の流れであ る。この両市のように対象とする地域の取り方で時期のズレはあるが、多摩地方の場合の庚申塔は 以下のよう変遷である。 [表1]参照
期間 | 年代 | 特徴 |
---|---|---|
第1期 | 中世 | 庚申板碑・宝篋印塔時代 |
第2期 | 寛文〜貞享 | 主尊混乱時代 |
第3期 | 元禄〜天明 | 青面金剛時代 |
第4期 | 寛政以降 | 文字塔時代 |