初めて杉本林志翁(故人)の「百庚申巡禮記」を手にしたのは、昭和38年5月頃だったと記憶する。 青梅付近に庚申板碑はないだろうかと思って、 板碑に詳しい小学校時代の同級生である齋藤愼一君を訪ねてみたが、残念ながら庚申板碑の話を聞けなかった。 しかしこの時には、林志翁の曽孫である杉本寛一氏編の「百庚申巡禮記(故林志遺稿) 下」がのった 『多麻史談』第2巻1号(多麻史談会 昭和9年刊)を借りられた。
菊池山哉氏を中心に齋藤宗志郎・天野佐一郎・杉本寛一などの諸氏が多摩地方の郷土研究を目的とする多麻史談会は、 機関誌として『多麻史談』を発行した。 郷土幹事であった齋藤宗志郎翁は同君の祖父に当り、その関係で彼の手元に同誌があった。
齋藤君から借りた『多麻史談』は第2巻1号で、「百庚申巡礼記」の後編である。 彼の所にも、本家にも前編の載っている創刊号はなかった。 青梅1中の杉本先生は杉本寛一氏の甥であるから、その筋に当たってみてはアドバイスしてくれた。
数日後に梅岩寺の住職でもある杉本先生を訪ねたが結果は不首尾で、寛一氏は先年なくなられたという。 その後、郷土資料が揃っていると言われる武蔵野市立図書館にも行ってみたが、 『多麻史談』は2巻1号以後が揃っているものの創刊号が欠けていた。
多少とも青梅につながりのあった人なので、何か手掛かりはあるだろうと、 青梅市文化財保護委員長をつとめた稲葉松三郎翁の森下のお宅を訪ねてみた。 予想が的中して、稲葉翁から『多麻史談』の創刊号(多麻史談会 昭和9年刊)を借りることができた。 その上、林志翁の書かれた地誌『狭山の栞』(私家版 昭和14年刊)を併せて借りられた。
この巡礼記の範囲は、東京と埼玉の2都県にまたがる狭山嶺を中心とする5市1町である。 即ち、村山(多摩湖)・山口(狭山湖)の両貯水池に接している東村山市・東大和市・武蔵村山市・西多摩郡瑞穂町(以上東京都)と所沢市・入間市(以上埼玉県)を含んでいる。
入手した『多麻史談』2冊が私と林志翁のつながりで、この原本をもとに東京と埼玉の両都県にまたがる5市1町を廻り、 林志翁の巡礼記に庚申塔の資料をつけて『百庚申巡礼記』(私家版 昭和38年刊)をまとめた。 これを基にして「林志翁百庚申巡礼記」を書き上げ、庚申懇話会の会誌『庚申』37号(昭和39年刊)に発表した。
平成4年に多摩石仏の会から発行された『野仏』第23号には「西多摩石仏散歩」を発表した。 その中に「立川から箱根ケ崎へ −百庚申巡礼記を追って−」が含まれている。 これは、殿ケ谷を起点として瑞穂町内にある庚申塔を中心に石仏を巡るもので、林志翁の「百庚申巡礼記」の中の瑞穂町の塔に触れている。 この原稿は、多摩石仏の会編『新多摩石仏散歩』(たましん地域文化財団 平成5年刊)に使われている。 これまで書いた百庚申巡礼記に関する拙稿を編集して平成6年にともしび会から『林志翁百庚申巡礼記』を刊行した。
なお、林志翁の「百庚申巡礼記」は、武蔵村山郷土の会編『武蔵村山の庚申塔』(同会 昭和57年刊)や同市教育委員会編『武蔵村山市の庚申塔』(同会 平成2年刊)、 あるいは所沢市史編集委員編『所沢市の庚申塔』(所沢市史編さん室 平成1年刊)に引用されている。
林志翁は、私と多摩地方や入間地方の庚申塔を結びつけた恩人で、その結びつきを助けたいただいた曽孫の杉本寛一氏と共に忘れられない存在である。