庚申塔物語

庚申塔とは何か

庚申塔とは何か

庚申塔は、庚申信仰の産物であることに違いない。旧暦の場合は、通常の年に庚申のアタリ日(60日毎に回ってくる)が6回あるが、年によっては5回(5庚申)や7回(7庚申)のこともある。3年間に18回のアタリ日に庚申待を続けて行なうと、「一切ノ願望、此内ニ成就セヌト云う事ナシ・・・・」(大分県宇佐八幡蔵『庚申因縁記』)といわれ、三年一座(3年間に18回の庚申待を連続して行なう)を済ませて庚申供養のために石塔を造立した。この供養の石塔が庚申塔である。東京都豊島区高田・金乗院(目白不動)境内にある寛文8年塔に刻まれた「奉待庚申講一座二世安楽所」の銘文は、このことを示している。

三年一座を済ませて庚申供養のために造立した石塔を「庚申塔」と定義付けるのはたやすい。また「庚申塔」とか「庚申供養塔」と刻まれた石塔ならば、庚申塔であるのがわかる。しかし各地にある数多くの庚申塔に実際に接してみると、これが「庚申塔」だと断言できない場合があるし、判定に迷う事例もでてくる。たとえば、地元の人達が庚申塔と呼んでいるけれども、何の銘文も刻まれていない自然石は、はたして庚申塔といえるだろうか。また庚申に関した銘文もなく、馬頭観音を主尊にした石塔を地元が庚申塔といっているから庚申塔にしてよいのだろうか。種子の「ウーン」一字だけを彫ったものはどうなのだろうか。

山王二十一仏種子を刻んだ塔も、そうした一例である。埼玉県草加市稲荷町・慈尊院境内には、上部に山王二十一仏種子のある板碑型の文字塔が3基並んでいる。向かって右端のものは、寛永13年(1636)の建立で「奉果庚申待二世成就攸」と刻まれている。中央の正保4年(1647)塔と左端の承応元年(1652)塔には、右端にみられるような庚申に関した銘文はない。

右端にある寛永の塔は、誰も問題なく庚申塔として認めている。しかし中央と左端の両塔は、はたして庚申塔とみなしてよいもかどうか、疑問の残るところである。庚申信仰イコール山王信仰であれば、そうした議論の余地がない。ところが両者は、密接な関連は持つものの、それぞれが相互に独立した信仰である。そこで庚申に関係する銘文がなく、山王二十一仏種子を刻んだ塔は、単独の山王信仰によるもか、それともそうした銘文はなくても庚申信仰と結びついて建立されたものか、見らたのわかれる点である。そのどちらに判断するかによって、一方では庚申塔であるというし、他方では庚申塔と認められないということになる。

山王の場合だけでなく、猿田彦大神を主尊にしたものは道祖神かどうかの問題が起こるし、他にも帝釈天ではどうか、などといろいろの事例にぶつかる。そうなると1体、庚申塔とは何なのか、について考えざるをえないだろう。そこで庚申塔の範囲をどの辺に置くかが問題になり、その線引きの基準が求められる。

現在のところ残念ながら庚申塔の範囲を示す明確な基準はない。研究者の個々の判断にまかされているのが現状である。ここでは清水長輝氏が『庚申塔の研究』の中で示された範囲基準を土台に試案を述べよう。

私の範囲基準というのは、資格基準(表1)と除外基準(表2)とに大別される。

表1.資格基準
銘文基準 庚申信仰によって建てたことを銘文に記してあるもの。
青面金剛基準 青面金剛の像か文字を刻んだもの。
三猿基準 塞目・塞耳・塞口の三猿か、その一部があって庚申以外の造塔目的を記していないもの。
類似基準 塞目・塞耳・塞口の三猿以外の猿でも塔の全体が他の庚申塔と類似するものや、日月や鶏などを伴なって、おおむね庚申信仰のために建てらたと推測されるもの。
表2.除外基準
造立目的基準 施主が庚申講中であっても他の目的で造立したもは除く。
奉納物基準 庚申塔や庚申祠への奉納物を除く。
伝承基準 銘文がなく、単に庚申塔であるという伝承だけのもは除く。

庚申塔かどうかの判定は、資格基準の4項目のいずれかに該当し、除外基準の3項目のいずれにも触れないものを庚申塔とする。

このような一定の基準がないと、庚申塔の範囲を特定することができず、各人バラバラな尺度で庚申塔を規定することになる。共通の基準が必要である。

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