庚申塔物語

塔の移り変り

塔の移り変り

庚申塔が建てられるようになったのは、前にも触れたように室町時代以降のことで、現存最古の塔は埼玉県川口市領家・実相寺の文明3年(1471)銘の庚申待板碑が挙げられる。江戸時代に入って庚申塔は各地で造立されたが、寛文年間からその数を増し、元禄年間には広く各地で多くの塔が建立された。庚申様として知られている青面金剛は、文字塔では天正19年(1591)に宮崎県西諸郡高原町広原で初出しているし、刻像では神奈川県高座郡寒川町下大曲・下大曲神社の承応2年(1653)塔が現在のところ最も古い。私が見た範囲で最も新しいのは、東京都足立区東綾瀬・下河原公園内にある平成8年青面金剛刻像塔である。多摩石仏の会の多田治昭さんの調査では、千葉県八千代市佐山に平成14年4月22日造立の庚申文字塔である。

室町時代に始まった庚申塔の造立は、現在まで530余年の歴史を有するが、その間に内容的にも外観上からも塔の変遷がみられる。清水長輝氏は、東京を中心として周辺を含めた場合の推移を4期に大別している(『庚申塔の研究』 大日洞 昭和34年刊)。

塔の区分と年代(清水長輝氏)
区分 年代
第一期 板碑時代 室町〜桃山安土時代
第二期 混乱時代 元和〜延宝年間
第三期 青面金剛時代 天和〜天明年間
第四期 文字塔時代 寛政以降

関東地方の場合は、ほぼこのような傾向が認められる。しかし地域によってその区分年代にズレがあり、第一期が欠けるところがみられる。

庚申懇話会の小花波平六氏は、清水長輝氏の区分を別の表現で次の4期にわけている。

塔の区分と年代(小花波平六氏)
区分 年代
第一期 初期の庚申塔 文明年間〜文禄年間
第二期 諸仏の庚申塔 慶長年間〜延宝年間
第三期 青面金剛刻像塔 天和年間〜天明年間
第四期 文字の庚申塔 寛政年間〜現代

形式と主尊からみて、第一期を板碑・諸仏時代、第二期を諸型式・諸仏時代、第三期を諸型式・青面金剛時代、第四期を文字塔・主尊混淆時代としている(「庚申塔」『るるぶ別冊9』所収 昭和56年刊)。

両氏の時代区分は、関東地方を中心とした見方であって、かなずしも各地で適用できるわけではない。たとえば佐賀県の場合には、第一期は庚申石幢時代というべきであるし、石幢・6地蔵時代といえる。また中世の庚申塔が発見されていない県では、板碑時代ではなくて、無塔時代というべきであろう。第二期に造立された塔がすべて文字塔の所では、前期文字塔時代、第四期を後期文字塔時代に区分する地域もあろう。さらに出現時期のズレがみられる。東京都西多摩地方では、第三期が元禄年間から始まる。山梨県北都留地方では、第一期が文明から万治までの無塔時代、第二期が寛文から享保までの庚申石祠・刻像塔併立時代、第三期が享保から天明までの青面金剛時代、第四期が寛政以降の文字塔時代である。

東京都多摩地方でも地域を狭めて八王子市内の場合は、第一期が中世の「庚申宝筐印塔時代」、第二期が延宝年間から宝永年間までの「主尊乱立時代」、第三期が正徳年間以降寛政年間までの「青面金剛時代」、第四期が享和年間以降現代までの「文字塔時代」と時代区分できる。

青梅市の場合は、中世の第一期を「無塔時代」、寛文〜延宝年間の第二期を「初期時代」あるいは「混乱時代」、元禄から明和の第三期を「青面金剛時代」、寛政から明治にかけての第四期を「文字塔時代」と特徴づけて区分した。

極端なれになるが、国立市の場合は、貞享3年から寛政5年までに5基の庚申塔が造立され、いずれも青面金剛像の笠付型である。つまり国立市内では第一期の「板碑時代」と第二期の「初期時代」の造塔がみられず、第三期の最盛期の青面金剛時代のみに集中しており、末期の第四期の「文字塔時代」にも塔が建てられていない。

このように地域を限ると、先の両氏による時代区分は、年代のズレがあったり、地域特性がみられて、必ずしも適切とはいいがたいけれども、庚申塔の大きな流れを見るのに目安にはなる。それぞれの地域の変遷を概観すると面白い。

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