伝尸を駆除する青面金剛は、伝尸と三尸の関連から庚申信仰にとりいれられ、礼拝本尊に加えられる。江戸時代には広く各地に普及し、庚申の本尊として定着する。青面金剛の像容は『陀羅尼集経』に説かれているけれども、現在各地でみられる刻像は、儀軌に示された2童子・4薬叉を伴なう2鬼上に立つ3眼4臂像とは異なっている。
刻像塔の主尊で最も多いのは、青面金剛である。文字塔では、早くから現われている。鹿児島県指宿市新西方には、天文14(1545)年塔に佛・菩薩・明王・天部の諸尊に混じって「青面金剛」の尊名が見出される。宮崎市新名爪の天正18(1590)年塔には、青面金剛単独の尊名が刻まれている。両塔では、まだ庚申信仰との結びつきが明らかではないが、翌19年(1591)に造立された同県西諸県郡高原町広原の文字塔には、青面金剛の尊名と「故為庚申供養」の銘が彫られ、青面金剛と庚申信仰とが結びいていることが示されている。また、東京都あきる野市牛沼・秋川神社に「生面金剛」と刻まれた懸佛が存在していたという記録が残っている。
刻像塔に青面金剛が登場するのは、承応年間以降である。承応2年(1653)には、神奈川県高座郡寒川町下大曲の4手の青面金剛刻像塔が現れる。寛文年間からは各地で造像され、元禄以降には広い地域にわたり、しかも量的にも一段と増加して庚申の主尊としての王座を占める。他の主尊を引放して刻像塔を独占し、青面金剛の最盛期を迎える。
青面金剛は、儀軌に説かれた刻像ではなくて、一般に各地で見られるのは中央の2手が合掌、あるいは剣と人身(ショケラ)を持つ6臂像である。各地の刻像を調べてみると、6臂像が主流ではあるけれども、いろいろな変化が認められる。そうした例を東京都多摩地方の塔から1件1例で示すと
2手 | 寛文6年 | 三鷹市中原4丁目 | 菊地宅 |
4手 | 元禄7年 | 昭島市大神町3丁目 | 観音寺 |
8手 | 文化12年 | 府中市天神町3丁目 | 路傍 |
3面 | 元禄3年 | 田無市本町3丁目 | 総持寺 |
陰刻 | 宝永5年 | 小金井市前原町 | 共同墓地 |
丸彫 | 正徳4年 | 保谷市泉町2丁目 | 路傍 |
があり、6臂像であるが2童子と4薬叉を伴なうものが調布市つつじが丘にある。杉並区成田西3丁目・宝昌寺には坐像がみられ、神奈川県中郡二宮町の寺には舞勢像がある。
多摩地方の例でもわかるように、青面金剛には二手・四手・六手・八手の像がある。持物もいろいろであるので、最も単純な二手の場合をみると、次の表の通りである。同種の像が三基以上の場合には、上位二基を表示する。
都県 | 型式 | 年銘 | 西暦 | 塔型 | 所在地 | 備考 |
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埼玉 | 剣索型 | 寛文3年 | 1663 | 笠付型 | 大宮市西遊馬 高城寺 | 三面 |
延宝4年 | 1676 | 光背型 | 宮代町百間・川島 一庵坊 | [註1] | ||
剣人型 | 寛文11年 | 1671 | 光背型 | 大利根町琴寄 庚申堂 | [註1] | |
矛索型 | 寛文12年 | 1672 | 光背型 | 杉戸町堤根 馬頭院 | [註1] | |
寛文12年 | 1672 | 光背型 | 久喜市青毛 鷲宮神社 | [註1] | ||
千 葉 | 合掌型 | 元禄10年 | 1697 | 光背型 | 沼南町高柳 藤庚申 | |
元禄13年 | 1700 | 光背型 | 白井町折立 香取神社 | |||
剣人型※ | 元禄10年 | 1697 | 光背型 | 沼南町高柳・三叉路 | ||
元禄15年 | 1702 | 光背型 | 松戸市中根 妙見神社 | |||
剣人型 | 寛文6年 | 1666 | 光背型 | 小見川町南下宿 善光寺 | [註1] | |
寛文5年 | 1715 | 光背型 | 松戸市上矢切 宝蔵寺 | [註1] | ||
型不明 | 延宝1年 | 1673 | 光背型 | 関宿町台町 光岳寺 | [註1] | |
延宝4年 | 1676 | 光背型 | 佐倉市下志津 庚申塚 | [註1] | ||
東京 | 剣索型 | 寛文6年 | 1666 | 光背型 | 三鷹市中原4-16 庚申祠 | |
寛文8年 | 1668 | 笠付型 | 杉並区方南2-5 東運寺 | |||
輪矛型 | 寛文10年 | 1670 | 柱状型 | 町田市相原町・大戸観音 | 図録参照 | |
合掌型 | 貞享4年 | 1687 | 柱状型 | 新宿区富久町4-5 自証院 | ||
寛保3年 | 1743 | 笠付型 | 檜原村檜原・下元郷・都同路傍 | |||
神奈川 | 剣棒型 | 寛文2年 | 1662 | 光背型 | 津久井町馬石・路傍 | 図録参照 |
貞享3年 | 1686 | 光背型 | 津久井町関・光明寺墓地 | |||
輪矛型 | 寛文8年 | 1668 | 光背型 | 愛川町田代・上ノ原 | [註3] | |
寛文9年 | 1669 | 光背型 | 愛川町横根・滝不動 | [註4] | ||
合掌型 | 宝永6年 | 1709 | 笠付型 | 相模湖町寸沢嵐・日日神社 | ||
山梨 | 合掌型 | 文化10年 | 1813 | 笠付型 | 上野原町上野原・慈眼寺 | 背に弓矢 |
年不明 | -- | 光背型 | 韮崎市相垈 | [註3] | ||
矛矛型 | 貞享2年 | 1685 | 柱状型 | 宮崎市宮田町3 宮崎八幡宮 | 図録参照 |
[参照]『二手青面金剛を追う』(庚申資料刊行会 平成13年刊)
この表からもうかがえるように、造立した地域によって持物が異なり、地方差がみとめられる。
最も多いのが6手像で、大きく中央手の持物によって(1)剣人六手、(2)合掌六手、(3)その他、の3種に分類できる。そうはいっても(2)合掌六手の場合をみても上方手に矛と宝輪、下方手に弓と矢を執る標準形が主流ではあるが、中央手以外の4手にいろいろな持物を持っている。例えば、多摩石仏の会の中山正義さん(埼玉県春日部市在住)が「岩槻型」と呼んでいる合掌六手像は、中央手が合掌だから合掌六手に分類される。しかし剣人六手がの中央手に持つ人身(一般に「ショケラ」として通用している)が、上方手か下方手にみられる。埼玉県岩槻市を中心に分布するところから「岩槻型」と名付けられた。この型の青面金剛について詳しく知りたい方は、多摩石仏の会の会誌『野仏』第19集(昭和63年刊)の「岩槻型青面金剛について」を参照されたい。
岩槻型以外にも、千葉県市原市に岩槻型のように上方手か下方手に人身を持つ6手像が分布する。岩槻型と大きな違いは、鬼が正面向きでなく、各塔の共通性がない点にある。人身を合掌六手の他の4手に持つローカル性に注目して「市原型」とした。
東京都多摩地方には、私が名付けた「万歳型」が八王子市を中心とした日野・多摩・町田などの南多摩地区に分布している。これも合掌六手の1種で、下方手は標準形と同じ矢と弓を執る。異なるのは上方手で、矛と宝輪に換えて日天と月天を持つか、捧げている。この万歳型は、多摩地方独占ではなく、東京区部や長野県内にも存在する。8手像で合掌六手標準形に日天と月天を持つ2手を加えた8手像が東京都杉並区や埼玉県川越市にみられる。
岩槻型にしろ、市原型にしろ、万歳型にしても合掌六手標準形から外れた持物を執る。このようなローカル性は、各地の青面金剛にもあるだろう。(3)のその他に分類される青面金剛で、さいたま市の浦和を中心とする地域に「人鈴型」と私が名付けた青面金剛がある。中央手に人身と宝鈴を持つ6手像である。こうした異形の像が各地で分布するから、ある地域に分布する6手像を持物から分類すると思わぬ結果が生まれる。
次の図解は『日本の石仏』第106号(日本石仏協会 平成15年刊)の63頁に載せてた「青面金剛の手数と形式」である。各種の青面金剛の関係を知る上で、参考になると思う。