庚申塔物語

横田甲一さん

横田甲一さん

横田甲一(故人)さんは、庚申懇話会や武蔵野文化協会などの会員であった。 考古学に興味を持たれていたが、大護八郎さんや八代恒治さんがそうであったように、後に庚申塔に転向された。 間違ったことが嫌いで、大護八郎さんとやりあったことがある。 古き日本人の良さ、明治人の頑固さを持ちあわせた方で、私たち後輩に対して面倒みがよかった。 お住まいが渋谷だった頃には、自宅を開放されて庚申懇話会の例会が行われた。 川崎に移られてからも、何度かお宅で例会をやっている。

横田さんの調査フィールドは、地元の渋谷区から練馬区、さらには栃木県日光市や埼玉県、千葉県へと拡がっていった。 多摩地方にはほとんど縁がなかったが、多摩石仏の会にも籍をおかれ、例会に参加されたし、会誌『野仏』にも寄稿された。 第12号(昭和55年刊)の「高柳の寝庚申」や第18号(昭和62年刊)の「神奈川の石仏─再び円蔵の三猿塔について」などがある。

庚申懇話会の会誌『庚申』には、横田さんが第3号(昭和34年刊)に「庚申塔の由来?」を発表されて以来、 第97号(平成4年刊)の「おいてきぼりの三猿塔」(同号には他に2編)まで数多くの論考を発表されている。

多摩地方の庚申塔に関するものは、『庚申』第53号(昭和43年刊)に載った「東京都東村山市徳蔵寺の月待及庚申待板碑」、 第70号(昭和50年刊)の「庚申一座塔について」で八王子市東中野の文化6年塔、 第80号(昭和54年刊)の「汝等所行・是菩薩道の偈文塔」で青梅市河辺・東円寺の元禄4年塔にふれている。

横田さんは、庚申懇話会編の『石仏の旅 東日本編』(雄山閣出版 昭和51年刊)や日本石仏協会編の『日本石仏図典』(国書刊行会 昭和61年刊)では分担執筆されている。 これ以外にも、活動の一端をみると『武蔵野』第234〜6号(武蔵野文化協会 昭和33年刊)には「練馬区内の庚申塔を求めて」、 『会報』第77号(練馬郷土史会 昭和43年刊)に「上州の庚申塔」、 『日本の石仏』第5号(日本石仏協会 昭和53年刊)に「猿田彦塔と塞神塔」、 『あしなか』第160輯(山村民俗の会 昭和53年刊)に「修験と庚申塔」、 『杉並郷土史会会報』第53号(同会 昭和57年刊)に「庚申塔の話」、 『房総の石仏』第2号(房総石造文化財研究会 昭和58年刊)に「日蓮宗系の庚申塔」などという具合に、 横田さんの研究活動の広さがうかがわれる。

平成5年に発行された『庚申』第98号は、横田さんの追悼号である。 著作の詳細は、縣敏夫さんが同号に「横田甲一著作目録」を載せているから、参照していただきたい。

横田さんは、山村民俗の会の会誌『あしなか』第182輯(昭和58年刊)に「庚申三猿図録」を発表された。 「私と庚申の猿」「関東地方庚申塔の猿」「三猿の配列」「猿の性表現」の4項目の解説文に各地の三猿を撮った写真を多数載せている。 三猿の変化が見ていて楽しいものである。 たまたま多摩地方の三猿が含まれていなかったので、これに刺激されて私は同誌第185輯(昭和58年刊)に「多摩地方の変わり型三猿」を寄稿した。

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