八代恒治さんは、多摩石仏の会の創立メンバーの1人で、初代会長に選ばれた。 多摩石仏の会の発足のきっかけになったのは、昭和42年2月3日付けの毎日新聞多摩版の記事にある。 それには、八代さんの紹介記事がみられるので引用すると、
バイクで塔さがし
府中市[以下住所割愛]、同市立四中教諭、 八代恒治さん(六〇)が三多摩の庚申塔や野ぼとけの研究をはじめたのは三十三年から。 国学院大在学中に歴史を専攻していたので、年々遺跡がこわされていくのにがまんができず、 庚申塔を中心に、野ぼとけの研究をしてみようと、考えた。
休みを利用してはバイクや自転車で府中市をはじめ、三多摩の野ぼとけ、庚申塔を捜しまわり、 庚申塔六百、地蔵さんや馬頭観音の石像九百体をみつけた。 三十六年にはガリ版を切って三十六ページの“三多摩の庚申塔”と題する本を発行、 地蔵などの写真もとってある。
である。引用にもあるように、昭和36年に私家版『三多まの庚申塔』を発行され、 初めて多摩地方に分布する庚申塔を集録された。 溝口氏の日野町(当時)の調査研究から、八代さんによって広域にわたる多摩地方全体の庚申塔研究が始まったといって過言ではない。
八代さんの『三多まの庚申塔』には、多摩地方の庚申塔が597基収録され、 「塔の分布」など八項目にわけて分析している。 猿の形を造立年代によって、元禄以前の「正面を向き、形もわりあい大きく、しゃがんだ背丈もたかく、 両足が平行に近くなっている」から、元禄以後の「正面向きの猿が手足でつくる形がだんだん菱形に近いものとなり、 大きさも小形のもが多くなってくる」へ変化し、後期の「三猿もいろいろの姿のものがあらわれてくる」と図解を添えて解説している。
八代さんは、早くからの庚申懇話会の会員である。会誌『庚申』には、 第27号(昭和37年刊)に神奈川県の「三尸銘の塔」、第30号(昭和38年刊)に長野県の「杖突街道の庚申塔報告」を発表している。
お住まいが府中市だから、早くから地元の庚申塔の調査を行っていた。 府中の庚申塔に関するものは、 前記の『三多まの庚申塔』以外に『ふちゅうの石造遺物 その一』(刊年不明)や府中市史編纂委員会編の『府中市史史料集』2(昭和39年刊)に「府中市の庚申塔」、 『府中市立郷土館紀要』第2号(昭和51年刊)に「府中の供養塔」、 『府中市の石造遺物』(府中市立郷土館 昭和55年刊)を執筆されている。
八代さんは、個人誌『たかね』を発行された。 第1号(昭和43年刊)に「是政の庚申講記録」、第2号(昭和44年刊)に「庚申の掛軸」を載せている。 この雑誌は『三多まの庚申塔』と同様に孔版印刷で、鎌倉や静岡県岳南の庚申塔の記録がみられる。 八代さんのガリ版は、読みやすい丁寧な文字で一時期『庚申』のガリ切りを担当された。