庚申塔物語

松浦伊喜三さん

松浦伊喜三さん

松浦伊喜三さん(故人)は多摩石仏の会の会員で、戦前には東京都と神奈川県の庚申塔を廻られてスケッチされた。 それが1本にまとめられたのが私家版の『庚申塔スケッチ集』(昭和44年刊)である。 その出版について「あとがき」で、

青年時代より登山と写真を趣味とした。 私は、山村の路傍にひっそりと立つ石佛に若干の興味を抱いていたが、特別な研究や記録は考えていなかった。

しかし、昭和17年頃 アルスより武田久吉博士の写真集「道祖神」が発刊されたのに、 大いに刺激され、素朴な石像の美しさと、その形態の変化におどろき、これの探究欲を大いにそそられた。 しかし道祖神探究にはどうしても 東京から離れた甲信相に足をのばさなければならないので、 戦時下業務多忙のこととて、とても無理であるから、東京附近の手近な石佛として 対象を庚申塔にしぼってみた。

これには、今では古典とも言うべき、三輪善之助氏の「庚申待と庚申塔」や種々の民俗誌に負う所が多大であります。

戦時中のこととて、写真材料が極度に不自由であり、 又写真では どうしても庚申塔の彫りや刻字を正確に記録出来ない面もあって、 得意の(?)スケッチを考え、余暇をさいては、当時の居住地(杉並区高円寺)や、 勤務地(川崎市中丸子)の近くを逍遙し、手当たり次第にスケッチ・ブックに描いたものである。

以来20年 スケッチ・ブックは書棚に眠っていたが、 昭和39年知り合った庚申塔の研究家 府中市の八代恒治氏にお見せした所、 貴重な資料とのご意見を聞かされ、自信を得て、 これを同好の士のご高覧に供したいと考えていたが 今回粗末な印刷ではあるが、 ここにまとめてみた次第である。

と記している。多摩地方では、

年銘西暦特徴塔形所在地
享保17年1732「南無妙法蓮華経 庚申供養之所」柱状型三鷹町牟礼
宝暦7年1757日月・青面金剛・一鬼・ニ鶏・三猿板駒型三鷹町北野
元禄5年1692日月・青面金剛・三猿笠付型三鷹町警防団第9分団本部横
元禄3年1690日月・青面金剛・三猿笠付型
年不明--一猿(不聞猿)板駒型
元禄5年1692日月・青面金剛・三猿笠付型三鷹町 八幡社・祖師堂前
文化10年1692「庚申塔」柱状型中島飛行機西北隅 関前橋際
天明4年1784「ウーン 庚申塔」(道標銘)柱状型武蔵野女子学院正門前
宝暦7年1757日月・青面金剛・ニ鶏・三猿板駒型神代村佐須 虎柏神社前
延宝8年1680地蔵「為庚申供養二世安楽也」光背型深大寺南坂下
明和1年1764日月・青面金剛・三猿笠付型矢野口 威光治山門前
寛政10年1798日月・青面金剛・三猿笠付型大久野村 岩井院入口
明和8年1771日月・青面金剛・三猿笠付型大久野村 細尾

の13基のスケッチを載せている。 いずれの塔も現存し、松浦さんのスケッチの確かさが証明されている。 なお所在地の表記は、『庚申塔スケッチ集』に記されたもので、現在は場所を移した塔がみられる。

庚申塔に関して『野仏』第3集(昭和45年刊)の「狛江町の石仏探訪」、 第5集(昭和48年刊)の「稲城の石仏」、第9集(昭和51年刊)の「渋谷区東福寺の文明二年造立庚申塔について」があり、 第13集(昭和53年刊)の表紙を松浦さんのスケッチ(杉並区成田西・宝昌寺の寛文8年青面金剛4手刻像塔)で飾っている。

庚申以外では、第8集(昭和50年刊)に「職人の信仰─特に聖徳太子信仰について─」、 第10集(昭和53年刊)に「双体道祖神の発祥地は何処か」、第11集(昭和54年刊)に「ウスサマ明王の石仏」を発表されている。 石佛以外にもコテ絵の研究に力を入れて、そのご努力には頭がさがる。

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