小幡晋氏は、昭和57年にその著作『多摩の庚申紀行』を武蔵野郷土史刊行会から出版された。 この本の「はしがき」に「わたしは南九州の庚申を始りに関東、甲信武方面の庚申行脚を試みてきた。 そしてたまたま庚申年に配したため多摩地方の150箇所、約280体の庚申を見てきました」と記されている。
巻末の著者紹介によると、1970年(1907年の誤植であろう)に鹿児島市で生まれ、 同県の師範学校を卒業して教員、満州国官吏となった。 昭和24年にソ連から復員している。 著作には『南九州の古城』『忘却の彼方に』『西南の役始末記』『多摩の古城址』『武蔵の古城址』がある。
巻末に挙げられたこの本の主な参考文献をみると、 『立川市史』『昭島市史』『調布市史』『武蔵野市史』『小金井市史』『国分寺市史』『国立市史』『八王子市史』の市史に『日野市の庚申塔』『府中市の石造遺物』『多摩市の石仏』『福生市石の文化財』『檜原歴史と伝説』『多摩の歴史』(7巻)がある。
文献の挙げられていない市町は、秋川市(当時)・稲城市・青梅市・清瀬市・小平市・狛江市・田無市・東村山市・東大和市・東久留米市・保谷市・町田市・三鷹市・武蔵村山市・五日市町(当時)・奥多摩町・日の出町・瑞穂町である。 この内三鷹市が2カ所、青梅市と瑞穂町が各1カ所の庚申塔が取り上げられている。
青梅市の場合は、文中に「数量的には八王子、府中、次ぐのではあるまいか」(204頁)とし、 青面金剛が29基、文字塔が44基の計73基と明記しながらも、 東青梅の光明寺にある文字塔1基だけを紹介している具合で、地域的にみてもかなり偏りがある。 文献を参照した日野市の33カ所、府中市の24カ所、多摩市の18カ所、調布市の11カ所、 昭島市と小金井市の9ヶ所などと多く、この紀行が参考文献に左右されていることがうかがえる。
口絵や文中にある立川市栄町と府中市本町・図書館前(当時)の刻像塔は、 いずれも3面の馬頭観音像で、青面金剛像ではない。 また、昭和55年造立の檜原の塔も馬頭観音である。 この点は、惜しまれるミスである。
庚申塔を撮った口絵の写真は、当時の状態を示して興味深い。 日野市石田・土方家前にある昭和48年塔は、現在「庚申供養塔」の主銘であるが、 かつては「康申供養灯」と刻まれていた。 このことは、口絵に掲げられた写真が造立当時の主銘「康申供養灯」を写しているので改刻の証拠になる。